Aからの眺望 #3
アマデウスのほう(前篇)

文・写真:青澤隆明

 東京にひさしぶりに雪が降った。新年早々、白くなった街を歩いて帰ると、寒さがつよい冷たさとなって、骨身に滲みてくるように感じた。寒さは人を骨にするのか、と少しだけ思った。

 おもに東京と鎌倉でしか暮らしたことのない私にとって、雪はやはり特別なものだ。それだけ思い出になりやすい、ということもある。雪が積もるように、思い出も積もり、記憶は白い厚みを帯びて凍った雪のうちに閉じ込められる。氷というのは、ほんとうに凍った水なのか。水のほうが溶けた氷であるのか。それは、最初にどちらをみるかによるのだろう。

 さて、もうすぐモーツァルトの誕生日である。知らないひとのことを親しい友人のように慕うにしても、モーツァルトはなかなか顔がみえにくい相手である。どのような人間であるのかを存分には感じられないから、いまはまだ弾くことが難しいんだ—と正直に話していたのはアレクサンドル・カントロフである。ロマン派が自分の本懐で、そこでは人間に出会うことがたやすい。その意味で、彼はバッハやモーツァルトやベートーヴェンには長らく距離を覚えてきたと語っていた。それだけブラームスが自分に近い、という話でもある。

 モーツァルトはつかまえられない天才。そう語っていたのは内田光子だが、それでも必死でつかまえようとしている感じは、とくにかつての彼女の演奏につよく感じられた。まだ若かった私には、それがどこかきつくもあった。つかまえようとすれば、もっと逃げるに決まっている相手を、どうしてそこまでつかまえようとするのだろう? 三、四十年まえのことだから、当然その分だけ私も若いわけで、いまもそうだが余計に人生のなんたるかを知らなかった。歳月はやはり必要なものだ。求めることは、いつも求められることに先立っている。

 きみはいったいどこにいるの? と戯れに問いかけるようにして、ザルツブルクの町を歩いていたのは、やはり冬の思い出で、朝から雪が降っていた。早朝の列車でミュンヘンからザルツブルクに入り、雪道にトランクを転がした。『Mozartwoche モーツァルト週間』をたずねたときのことであるが、モーツァルトはこの故郷を抜け出したがったのだから、そうそう帰ってくることもないだろう。それでも、生誕のお祝いならば、いまもここに、と思うこともいくらかはしやすかった。

 モーツァルトの生家をたずねてみた。本人の姿はやはり見当たらないので、差しあたって傍らに立つ係のひとに「おめでとう」と伝えておいた。「そう、254歳の誕生日です。それで今日はあそこに花を」と囁いて、彼は古いクラヴィーアを指差した。2010年の1月27日だったが、彼の計算は素早かった。254歳のモーツァルトの顔は、まったく思い浮かべることができなかった。

 生家をたずねたのは誕生日の午後のことで、雪もやんでいた。雪は降っているあいだはきれいだけれど、そのあとはちょっとたいへんだ。道路もそうだし、側道に積み上げられた雪も土混じりに汚れていて、町全体がセピアめいてみえた。日が暮れてくれば、なんだか不思議な遺跡のように沈んでみえた。

 「モーツァルトはどこにいるかって? ここはザルツブルクだから、いたるところにいるような気がする。このカフェはザルツブルクでいちばん古いから、もしかしたらモーツァルトがそこの席に座って、なにか書いていたかも知れないよ」。

 そう言って、レイフ・オヴェ・アンスネスは愉快そうに微笑んだ。1705年に創立されたカフェ・トマセッリの席で、ザッハトルテを食べながら。誕生日前夜のことだ。そのときカフェはがらんとしていたし、アンスネスはもの静かに話すひとなので、耳をすませば古くから流れる時間の音までも感じられそうに思えた。同世代の彼と、そうしてモーツァルトのことを話していると、アマデウス本人に聞き耳を立てられているような気もしてきた。

 ザルツブルクのモーツァルト週間も半ばに入り、アンスネスは明晩には、アーノンクール指揮ウィーン・フィルとのピアノ協奏曲イ長調K488の共演を控えていた。2010年1月27日の夜、祝祭大劇場で、モーツァルトの誕生日を祝う演奏会である。私がこのときザルツブルクまで足をのばしたのも、このコンサートを聴きたいことがいちばんにあった。

 「バッハとモーツァルトはいつもそこにいてくれる、僕にとっては友人みたいな存在だ。モーツァルトはとても人間的で、感情も豊かなのに、深い悲しみを表現しても、決して自己憐憫に陥ることはない。とても高いところにいる」。

 そうは言っても、いざ演奏のさなかに、モーツァルトが喜んでそこにいるとはかぎらない。なかなかに気まぐれなのだ。さっきまでいたはずが、いつのまにかいないこともある。「ザルツブルクでは自分が誰だかわからなくなる、他の場所ではそうではないのに」と言っていたのは他ならぬモーツァルトそのひとだった—。

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。