interview & text:オヤマダアツシ
photos:野口 博
日本におけるオーボエ界の、いやクラシック音楽界におけるレジェンドの一人である。1968年、18歳でドイツへ留学した後、紆余曲折ありながらも1975年以降はエッセン市立交響楽団、フランクフルト放送交響楽団(現在はhr交響楽団と改称)、ケルン放送交響楽団の首席奏者を歴任(1999年に辞任)。サイトウ・キネン・オーケストラ、水戸室内管弦楽団で演奏を続けるほか、リサイタル、室内楽、コンチェルトのソリスト等で活躍するという輝かしい経歴を残した。
2007年3月31日でオーボエ奏者を引退し、続いて指揮活動を行うも、2015年3月で引退。現在は東京音楽大学や小澤征爾オペラ塾などで後進の育成にあたっている。
6月30日、東京音楽大学「中目黒・代官山キャンパス」内のホールで行われる木管アンサンブルのコンサートで、4年ぶりに指揮者を務めることになった。多くの若手奏者を輩出する厳しい指導の奥義なども含め、これまでのキャリアなどについてもお話しをうかがった。
挫折を味わってからの再起、『ロッキー』のような減量も
──お弟子さんたちが今やいろいろなオーケストラで活躍中ですけれど、あらためてご紹介いただけますか。
東響の荒さん、都響の鷹栖さん、N響の吉村さん、セントラル愛知の安原君、仙台フィルの西澤君、静岡響の篠原君……、もっといますけれど、みんな頑張っていますね。
──桐朋学園高校を卒業して、すぐにドイツ(デトモルト)へ留学されましたが、日本からの留学生は多かったのでしょうか。
管楽器はほとんどいなかったと思います。だからというわけではないけれど、かなりの覚悟をもって毎日を過ごしていました。そういう体験をしたからかもしれませんが、今でもレッスンのときにちゃんと練習してこなかった生徒がいると「お金を出して送り出してくれた実家のご両親に、ここで謝りなさい」って言いますもの。デトモルトでは恩師になるヘルムート・ヴィンシャーマン(註:日本ではバッハの権威として有名)に出会うのですけれど、実は卒業して一度帰国したとき、挫折してオーボエを辞めようとしたんですよ。
──それは、なぜですか。
卒業したときの成績はよかったけれど、自分としては消化不良で「俺はこの程度だったのか」と絶望してしまって。東京に戻っても青山のアパートで引き篭もりみたいになって、飲めないのに酒浸りになって夜中にケーキを食べて、ものすごく太ってしまった。もちろんオーボエなんて触ってもいない。そうしたらある日、村井祐児さんというクラリネット奏者が楽譜を持って突然やって来て、こういうコンサートが決まっているからと有無をも言わさず押し付けられたんです。メンバーを見たらヴァイオリンの徳永二男さんやチェロの毛利伯郎さん、ヴィオラの川崎雅夫さんもいたかな。とにかく当時の若手のすごい人ばかりで、これはエラいことになったと思って、そこからはダイエットの日々でした。毎日、青山墓地へ行って『ロッキー』みたいに、ボクサーのステップで縄跳びしましたもん。コンサートで演奏したら、すごく楽しかった。だからあのとき村井さんが声をかけてくれなかったら、そのまま音楽を辞めていたわけです。
──波瀾万丈の番組みたいな話ですね。それで、もう一度ドイツへ留学を。
奨学金を得て、もう一度。またヴィンシャーマン先生やベルリン・フィルのローター・コッホさん、ミュンヘンの国立歌劇場で吹いていたマンフレート・クレメントさんなどにレッスンをしてもらいながら必死で勉強している中で、あるときエッセンのオーケストラで空きがあるからオーディションを受けないかという話が来るんです。これに受かって、ようやくプロの音楽家になれたわけですね。ただし右も左もわからないので、苦労の連続でしたけれど、練習だけは飽きるほどしましたし、失敗もいろいろありました。オケ中でソリストを振り向かせる! というくらいの意地で吹いていました。
──エッセンのオーケストラから、フランクフルト、ケルンと約25年にわたりドイツのオーケストラで首席奏者を務めることになります。
エッセンが3年、フランクフルトが5年、ケルンが17年ですね。ケルンに在籍している間にサイトウ・キネンが始まり、日本での仕事もどんどん増えていった時代です。ケルンでは日本公演も何度かしましたし、東京ではガリ・ベルティーニの指揮でマーラーの交響曲全曲シリーズもやりましたね。
──フランクフルト放送交響楽団のときは、エリアフ・インバルが首席指揮者を務めていた時代でした。
でもインバルは、エッセンにいたときに客演で来ているんです。それでフランクフルトのオーディションを受けたとき「あ、お前のこと知ってるよ」と言われた。どういうことかというと、どうやら僕のヴィブラートがとても個性的に聞こえたらしく、それで覚えていてくれたらしい。実は同じことを言ってきた指揮者や演奏家がたくさんいて、『のだめカンタービレ』に出演したズデニェク・マーツァルさんや、ベルティーニの後任でケルンに来たセミヨン・ビシュコフなどにも「あのヴィブラートのオーボエだろう」と言われたり、客演する指揮者が「あのヴィブラートが欲しいんだが、ミヤモトは乗っているか?」と事務局に電話をしてきたこともあったみたいです。ありがたいことですよね。
──日本人はその音を、いろいろなCDや朝ドラの『あすか』(註:大島ミチル作曲のテーマ音楽「風笛」)などで聴いていたわけです。
オケの中で吹くオーボエのソロなんて一瞬のことですから、そこでインパクトがなかったらダメ。しかもドイツのオーケストラですから「なんで日本人を首席奏者に採用したんだ」なんて思われてしまったら、もうアウトなんです。指揮者にもオケの仲間にも「そうだよな、やっぱりこいつだよな」と思われないと、存在価値がなくなってしまう。ですから日々の練習も飽きるほどやりましたし、新しい技術やリードもできるだたくさん開発しました。その上で、バッハの「ロ短調ミサ曲」でのアリアであるとか、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲などで、ソリストを振り向かせるくらいの演奏をするのが、自分としての意地でしたから。
──そういう体験は、お弟子さんたちにも伝えていますか。
いやになるくらい努力しろということは、必ず言いますね。オーボエなんて努力しなければ、本当につまらない音楽になってしまう。指揮者が要求することに対して応えられるほどいろいろな吹き方を知っていて、それが瞬時にできるくらい自分の身体に叩き込んでおくことが大切。そのためには日々の練習を積み重ねて、研究をし続けることしかないんです。
第2回につづく
※次回は、印象深かった齋藤秀雄のレッスン、バッハの宗教曲やシューベルトの歌曲を通してヴィンシャーマンから学んだことを中心に。
profile
宮本文昭(Fumiaki Miyamoto/音楽家)
1949年東京に生まれる。18歳でドイツにオーボエ留学後、エッセン・フィルハーモニー管弦楽団、hr交響楽団、ケルンWDR交響楽団やサイトウ・キネン・オーケストラ、水戸室内管弦楽団などの首席オーボエ奏者を歴任し、ソリストとしても世界的に活躍。2007年にオーボエ演奏活動 を終えた後も、自らプロデュー スするオーケストラ MAP’S を主宰し指揮活動を始める。20 12年 4月より東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の初代音楽監督に就任し、2015年3月に任期を終えた。現在は、東京音楽大学器楽科オーボエ専攻教授として後進の指導にあたる一方、複数の音楽コンクールの審査員を務めている。
information
指揮者・宮本文昭、1日だけ復活!
東京音大の教授陣や卒業生、愛弟子たちなどが集まる木管アンサンブルが素晴らしいモーツァルトなどを聴かせる(学生のみならず一般音楽ファンも入場可)。
東京音楽大学 創立111周年記念演奏会シリーズ
「木管ソロ・室内楽 演奏会」
2019.6/30(日)15:00
中目黒・代官山キャンパスTCMホール
出演/
◎R.シュトラウス:13管楽器のためのセレナード
指揮:宮本文昭 Fl:相澤政宏 中野真理 Ob:吉村結実 篠原拓也 Cl:四戸世紀 永和田芽衣子 Fg:水谷上総 小林佑太朗 Hr:水野信行 西本 葵 木川博史 勝俣 泰 Cb:星 秀樹
◎ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ ト短調
Fl:工藤重典 Pf:大堀晴津子
◎W.A.モーツァルト:セレナード第10番「グラン・パルティータ」
指揮:宮本文昭 Ob:吉村結実 篠原拓也 Cl:四戸世紀 永和田芽衣子 Bst-hr:松本健司 日下翔太 Fg:水谷上総 小林佑太朗 Hr:木川博史 勝俣 泰 水野信行 西本 葵 Cb:星 秀樹
チケット申し込み開始日
一般 2019.5/31(金)
学生 2019.5/15(水)
CD『Fumiaki Miyamoto』
SICC-700
ソニーミュージック ¥3000+税