自らの出発点《蝶々夫人》を、
舞台である「日本で指揮できることがとても嬉しいです」

ウクライナの指揮者オクサーナ・リーニフは、2021年に女性として初めてバイロイト音楽祭で指揮し、翌年から24年には、イタリアの主要な歌劇場では初の女性音楽監督として、ボローニャ歌劇場の音楽監督を務めた。“女性初の…”という前置きを抜きにしても、一人の優れた指揮者として、欧州の一流歌劇場で活躍中である。
リーニフにとって、今年の東京・春・音楽祭で指揮する《蝶々夫人》は大きな意味を持つオペラだ。2008年から13年まで副首席指揮者をつとめた母国オデーサの歌劇場で、「プロとして最初に指揮した作品」なのである。
「最初にこのオペラにたずさわったのは、学生時代にリヴィウのソロミヤ・クルシェルニツカ国立歌劇場でアシスタントを務めていたときです。これほど深く人の心の中に入りこみ、それを音楽で表現できる作曲家は他にいないと思いました。さらにそれから数年後、オデーサでこの作品を指揮した際には、あまりにも感極まってしまって、カーテンコールに出られなかったほどでした」
ボローニャでの3年間は、プッチーニの生家やゆかりの場所を訪ねるよい機会ともなった。
「オペラを指揮するときには、作品の舞台となった場所や作曲家の故地などを訪ねて、その空気を肌で知るようにしています。日本を初めて訪れた2008年には、長崎に行って港を見下ろし、グラバー邸やおよそ400年の歴史を持つ料亭『花月』を見学しました。伝統を大切にしている日本が大好きで、今回の公演の前にももう一度長崎に行き、新たな思いでリハーサルに臨むつもりです」
《蝶々夫人》は、日本と縁が深いだけではなく、ウクライナとも関係の深いオペラである。この作品が世界に広まる上で重要な役割を果たしたソプラノ歌手、ソロミヤ・クルシェルニツカ(1872〜1952)がウクライナ出身だからだ。
「よく知られているように、《蝶々夫人》の1904年ミラノ・スカラ座での初演は、惨憺たる失敗でした。3ヵ月後のブレシアでの改訂版上演の大成功が、現代まで続く人気のきっかけとなりますが、そのときに主役の蝶々さんを歌ったのが、クルシェルニツカだったのです。作曲家からも絶賛された彼女は世界的に活躍し、この役を4つの大陸で歌いました」
リーニフと同じくリヴィウの音楽院で学び、輝かしいキャリアを終えたのちはこの町を終の棲家に選び、現在は同地の歌劇場にその名を残すクルシェルニツカ。
「彼女の活躍は、自分にとってのお手本。本当に自らの人生を、音楽に捧げたひとだからです」

今回は、舞台装置のない演奏会形式上演となる。
「ドラマを音楽によって作り上げていくことで、みなさんが場面を想像できると思います。プッチーニのオーケストレーションの巧みさ、例えば第2幕の間奏曲には、蝶々さんの心理が描きこまれている。20世紀の作曲家としての特質を、より明快に楽しんでいただけると思います」
蝶々さんを歌うラナ・コスとは、以前から共演を重ねているという。
「オデーサ時代からよく知っていて、最近では《マノン・レスコー》でご一緒しました。今回の公演で共演できることを、とても嬉しく思います」
ピンカートン役のピエロ・プレッティもミラノ・スカラ座などで活躍し、リッカルド・ムーティからの信頼も篤い歌手だ。充実の歌唱陣にくわえて、オペラの経験も豊かな読売日本交響楽団が、どんな響きを奏でるのかも聴きどころになるだろう。
「日本の音楽界で重要な位置を占める『東京・春・音楽祭』で指揮させていただけるのは、とても光栄なことです。《蝶々夫人》で指揮者としてデビューしていなければ、私のキャリアはありませんでしたし、今この場にいることもなかったと思います。今回は素晴らしい音楽家たちとの共演で、プッチーニの真の傑作であり、日本へのオマージュでもあるオペラを、日本で指揮できることがとても嬉しいです。みなさん、ぜひ聴きにいらしてください」
取材・文:山崎浩太郎
(ぶらあぼ2025年3月号より)
東京・春・音楽祭2025
東京春祭プッチーニ・シリーズ vol.6《蝶々夫人》(演奏会形式) ライブ配信あり
2025.4/10(木)、4/13(日)各日15:00 東京文化会館
出演/オクサーナ・リーニフ(指揮)、ラナ・コス(蝶々夫人)、ピエロ・プレッティ(ピンカートン)、甲斐栄次郎(シャープレス)、清水華澄(スズキ)、糸賀修平(ゴロー)、三戸大久(ボンゾ)、畠山 茂(ヤマドリ)、田崎美香(ケート)、読売日本交響楽団(管弦楽)、東京オペラシンガーズ(合唱) 他
関連公演
東京春祭〈よく解る〉シリーズvol.1
《蝶々夫人》 お話と演奏で紐解くオペラ ライブ配信あり
2025.4/4(金)13:30 東京文化会館(小)
出演/ 迫田美帆(蝶々夫人)、石井基幾(ピンカートン)、村松恒矢(シャープレス)、林眞暎(スズキ)、古藤田みゆき(ピアノ)、田口道子(企画構成/お話)
問:東京・春・音楽祭サポートデスク050-3496-0202
https://www.tokyo-harusai.com