第36回高松宮殿下記念世界文化賞(公益財団法人 日本美術協会主催)の合同記者会見が10月21日、都内で行われ、音楽部門の受賞者であるピアニストのアンドラーシュ・シフが登壇した。国際理解の礎となる文化芸術の発展に貢献した芸術家に贈られる本賞。会見にはシフを含む各部門5名の受賞者や、ヒラリー・クリントンをはじめ国際顧問のメンバーらが出席した。

シフは現在71歳。若き日に「ハンガリーの三羽烏」の一人として頭角を現し、現代最高のピアニストの一人に数えられる。ソロ活動以外に、1999年には夫人でヴァイオリニストの塩川悠子ら信頼をおく弦楽器の名手たちとともに室内オーケストラ「カペラ・アンドレア・バルカ」を創設。今年3月にも「バルカ」と来日し、レパートリーの中心に据えるバッハやモーツァルトの協奏曲を弾き振りで披露。確かな知性とユーモアを感じさせる音楽づくりで日本の聴衆を魅了した。
会見冒頭に流された受賞者を紹介する映像の中で、シフは演奏家としての在り方、また商業主義とは一線を画した自身の音楽観について、以下のように語っていた。
「演奏家はあくまで再創造者であり創造者は作曲家で神聖な存在です。作曲家に奉仕し自分を捧げるべきです。作曲家の指示に従わなければなりません。とはいえ、演奏家の個性が表れるものです。(中略)私にとってコンサートはエンターテインメントではありません。良い時間を過ごしてほしいですが、ショービジネスではないのです」

会見では、謙虚な言葉でスピーチ。
「(他部門の)受賞者の皆さま、そして過去の輝かしい受賞者とご一緒できることは誠に光栄です。創造的な芸術家の皆さまとここにいることは身の引き締まる思いです。私には他者の書いたものを再現することしかできません。私の唯一の叶わぬ願いは、優れた作曲家になることです。しかし、残念ながらその才能は私には与えられませんでした。
日本は、私にとって常にかけがえのない国でした。50年近くにわたる数えきれないほどの訪問を通して、私はこの国の人々を称賛し、感謝し、愛することを学びました。私にとって日本は美しさ、礼儀正しさ、美意識、そして優れたセンス(good taste)の象徴です。日本においては、年長者、そして巨匠たちが敬愛されています。(今回の受賞を)心から感謝します」

その後、場所を移して行われた記者懇談会では、改めて「芸術は“ショービジネス”ではない」と語り、音楽の本質を静かに説いた。
「“ショー”も“ビジネス”も、私はどちらの言葉も好きではありません。芸術はエンターテインメントではない。もっと深い次元があると信じています。それは学びであり、生の音楽を聴くという唯一無二の経験を皆でシェアするという面もあります。演奏はその場限りのもので、翌日のコンサートは全く違うものになってしまう。その瞬間にしか存在しないからこそ意味がある。一人でリビングで聴く音楽ともまったく違います。人と共有することが大切なのです」
懇談会が行われたのは、ワルシャワで行われていたショパンコンクールの結果が発表された当日(日本時間)だったこともあり、話題は近年のコンクールに対する注目度の高さにも及んだ。
「コンクールは良くないものだと思います。音楽はスポーツではありません。芸術には計り知れない多くの要素があり、速さや距離などで数値化することができません。審査員の嗜好や感情が入り込んでしまうのです。
私自身、ショパンの音楽は大好きですが、聴きすぎるのは健康に良くない。優勝した若者(エリック・ルー)のことは、彼がカーティス音楽院の学生のときに演奏を聴いたのでよく知っています。以前、彼はリーズで1位を獲ったと思いますが、なぜショパンコンクールに出なければいけないのか……そんなことを考えてしまいます」
では、若い演奏家は何を指針として己を磨いていくべきなのか。ワインを例に、時間をかけて多くを経験することの重要性を強調した。
「成熟していくプロセスがワインと音楽家は似ていると思うのです。ボトリングされてから1年のワインはまだ若く、熟成しなければいけない。10年、20年経ってから美味しくなるものもあります。
私が20歳のときに学んでいたべートーヴェンのソナタと、今日の演奏を比べると、全く違います。考え方が変わったわけではありませんが、私という人間が変わりました。それは、多くの経験を通して出会った人たちや様々な書籍から影響を受けて変わっていったのです。
若い音楽家に何か言えるとしたら、『ずっと練習しているのではだめだ』ということ。賢く練習をすれば、一日3時間で十分なはず。残りの時間で本を読み、美術館や博物館に行き、友人と触れ合い、自然に親しむ——これらすべてが音楽づくりに貢献していくのです」

バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマンなどの独墺のレパートリーを軸にキャリアを築いてきたシフ。シューベルトを例に、“神聖な存在”である作曲家の解釈を明かした。
「シューベルトはベートーヴェンを神様のように敬っていました。2人はウィーンに同時期に住んでいました。シューベルトの方が27歳年下で、彼は非常に謙虚でシャイな性格だったので、自分からベートーヴェンに会いに行こうとは絶対にしませんでした。このような謙虚さにも感動します。そして彼の作品からはベートーヴェンの要素が感じ取れます。触発されたのは間違いありません。
シューベルトの音楽はベートーヴェンほど強靭に作られていませんので、演奏家の力で、それをどうにか空中分解しないようにまとめなければいけません。彼の作品には心臓と同じように(メトロノームとは違うんですよ!)鼓動がある。それによってシューベルトの音楽は保つことができると思います。
忘れてはいけないのは、シューベルトは最も偉大な歌曲の作曲家でもあります。どんな曲でもどこかに必ず歌曲の要素が現れます。それらをすべてを理解して演奏することが、シューベルトの難しさだと思います」
また、政治や世界情勢にも言及。シフは自身の母親が亡くなって以降、母国ハンガリーに入国していない。分断が進む昨今、芸術家ができることは「良い芸術を発信していくこと」だと語った。
「芸術と社会、政治は切り離すことができません。我々は社会の一部なのです。私は少数派なのかもしれませんが、不正を見たら、それから目をそらすことはできないのです。私は現在のハンガリーのヴィクトル・オルバン政権を支持できず、2010年以降戻っていません。ロシアにも行かなくなりました。かつては大好きな国でしたが、戦争を正当化することはできないのです」
さらに今年3月には、政治的状況を鑑み、この秋予定されていたアメリカでのリサイタルツアーをキャンセルし、大きなニュースとなった。本来であれば、「今頃はカーネギーホールでリサイタルをしているタイミングだった」という。
さらに、トランプ大統領が自ら理事長に就任し運営に介入、出演予定だった音楽家のキャンセルが相次ぐなど、混乱の続くワシントンの文化施設ケネディ・センターのことにも触れた。
「私は、今あのモンスターとしか言いようのない人の肖像画の下で演奏するなんて想像もできません。私たちは、やはり歴史から学ばなければなりません。人類の歴史から戦争がなくなったことはありません。しかし、私自身は(音楽で)平和をもたらすことができると信じています」

アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル(映像・演劇部門) 、アンドラーシュ・シフ(音楽部門)
シフは最後に、日本文化への敬意とともに危機感も示した。
「優れたセンスという点において、日本は世界最高峰の国だと私は思っています。生け花、食事、物を買ったときのパッケージング、すべてが美しい。日本の皆さんには、自国の文化に誇りを持って大切にしていただきたいです。
その反面、若い人と話していて、『あなたの国の民謡を歌ってくれませんか?』と聞くと、何を言っているんだ? というような反応をされることがあります。自国の民謡や音楽を知らないというのは、とても深刻な状態だと思います。音楽や踊りはその国独自の文化をつくり上げているのです」
ステージでの姿と同じ落ち着いた佇まいで、穏やかな笑みを浮かべながら丁寧に語ったシフ。来年春には日本でのリサイタルツアーが予定されている。現代社会を憂いながらも、「音楽は人々を結びつけると信じている」と力を込めた。芸術と社会に対する深い洞察、そして次世代へ向けられた厳しくも温かいシフのメッセージをしっかりと心に刻みたい。
文・写真:編集部

高松宮殿下記念世界文化賞
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