初演から100年、新国立劇場オペラ《ヴォツェック》新制作への期待

狂っていく世界の歪みのなかで――ヴォイツェクの負わされたもの

文:青澤隆明

 虚無は自殺しちまったのさ。創造ってのは虚無の残した傷痕さ、僕らはそれから落ちた血の滴、世界は墓場、そこでは腐敗が進行する――気違いじみて聞こえるかもしれないけれど、しかしなにがしかの真実はあるぜ。
(ビューヒナー『ダントンの死』)

 事件の始まりはこうだ。しかし、ほんとうはいつ始まり、いつ終わるのか。この狂った世界のなかで、愛憎や暴力はくり返す。ビューヒナーやベルクが鋭く察知していたように。

 まずは、実在した人物のことを――。ヨーハン・クリスチアーン・ヴォイツェクは1780年1月3日、ライプツィヒで生まれた。父はポーランドないしチェコから移ってきた理髪師で、ドイツ語をまともに話せなかった。ヴォイツェクの母は1788年に結核で命を落とし、父は再婚するが失意と孤独のなか93年にやはり結核で死んだ。ヴォイツェクはかつら屋に徒弟奉公して、五歳年上のヨハン・クリスチアーネ・ヴォーストに初めて出会う。やがて傭兵から戻ったヴォイツェクと再会したときには夫と死別しており、彼と関係を深めるが、他の兵士たちとも関係をもった。ヴォイツェクは嫉妬に狂い、浮浪して暮らすなか、妄想や幻聴にも憑りつかれていく。キリスト昇天祭で教会へ行った2日後、1821年6月21日に彼は短剣を買い、その夕刻、未亡人を7回刺して殺す。刃を求めたときに「刺し殺せ!もっとやれ!もっとやれ!」と煽る声が聞こえていたのだという。これが物語の原型である。

ヨーハン・クリスチアーン・ヴォイツェク(1780–1824)

 1813年10月17日、カール・ゲオルグ・ビューヒナーが外科医を父に、ゴッデラウで生まれる。21歳で秘密結社を結成し、反政府運動を試みるが、ドイツでの革命の可能性を断念。医学、自然科学、解剖学、哲学を研究しつつ、創作に勤しみ、1835年には亡命の資金繰りのため戯曲『ダントンの死』を書き上げ、出版に漕ぎつける。翌年には小説『レンツ』、喜劇『レオンスとレーナ』を書き、夏頃から戯曲『ヴォイツェク』に取りかかった。医学論文を発表し、チューリヒ大学の講師にもなったが、1837年2月、チフスを発病、23歳で夭折した。

カール・ゲオルグ・ビューヒナー(1813–1837)

 『ヴォイツェク』は未完で遺され、初稿、断片、再稿に描かれた30ほどの情景をどのような順序で配列するかについても決定づけられてはいない。1878年にカール・エミール・フランツォースにより最初のビュヒナー全集が刊行されて、初めて世に出るが、解読の難しい原稿で、「Woyzeck」は「Wozzeck」とみなされた。1913年11月8日に、ビューヒナー生誕100年を記念して、同作が『ダントンの死』とともにミュンヘンで初めて上演された。

 1914年5月にウィーンの室内歌劇場で上演されたときは、29歳のアルバン・ベルクが舞台を観ている。この際のフランツォース版のランダウ改訂版にもとづき、ベルクは自ら台本に取り組み、翌年夏には彼自身第一次世界戦で徴兵もされるが、1922年春にかけて15のシーンにまとめた全3幕のオペラを作曲していった。

アルバン・ベルク(1885–1935)
©Georg Fayer

 ベルクの《ヴォツェック》op.7がベルリン国立歌劇場で初演されるのは1925年12月14日。エーリヒ・クライバーの指揮、レオ・シュッツェンドルフのタイトルロールで、センセーションを巻き起こす。そして、それから一世紀後の現在がある。オペラ初演からまさに100年が近づく晩秋、英国の創造的な演出家リチャード・ジョーンズを迎えたプロダクションがおそらく新たな読みのもと、芸術監督・大野和士の指揮により新国立劇場で上演される。

 まだ20代の若きビューヒナーは、時代の病理と人間の脆弱さを、鋭敏に暴くように描き出した。原稿が進むにつれ、ヴォイツェクはルイ、フランツへと、内縁の妻はマルグレート、ルイーズ、マリーと名前を変えていった。ヴォイツェクには兵役中にも結婚を求めた女性がいて、彼女との間にはこどもまで生まれていたが、結婚の手続きがうまくいかなかった。このふたりの女性が、劇作ではフランツの「唯一の女性」とされる。

 ほかに同劇作中で名前をもつのは兵卒のアンドレース、近所の女マルグレート、阿呆のカール、居酒屋にいる女ケーテ。そして重要なのは、マリーの息子がクリスチアーン、つまり実在のヴォイツェクのミドルネームで呼ばれていることだ。大尉も鼓手長や医者といった、権力や加虐の立場に拠る者は職業で呼ばれるだけ。戯曲で重要な語りをする老婆こそ名無しだが、いっぽうで虐げられる者たちはみな名前のある人間だ。ベルクの台本ではヴォツェック、アンドレース、マリー、マルグレートがそれぞれの名で生き、社会や権力の側に立つ人間は名無しである。つまり、操られ、翻弄される人間には肉体があり、力を揮う側はたんに役柄なのだ。

指揮の大野和士と演出のリチャード・ジョーンズ(上段左上)
主要キャスト(上段左より時計回りに)トーマス・ヨハネス・マイヤー(ヴォツェック)、ジョン・ダザック(鼓手長)、ジェニファー・デイヴィス(マリー)、妻屋秀和(医者)、アーノルド・ベズイエン(大尉)、伊藤達人(アンドレス)

 ストーリーの根底には、貧困と失意、絶望と孤独があり、それが狂気と暴力に結びつく。「しんとしてら、何もかもしんとしてら、世界中が死んじまったようだ」とヴォイツェクは言うが、そもそも彼は世界から孤立している。さまざまな障害があり、存在の否定と社会からの疎外が、貧しさにあえぐ彼の孤独と狂気を深めていく。背景には戦争があり、権力があり、人体実験を施す医者までいて、いずれも彼という個人を物のようにしか扱わない。いっぽう、マリーがマッチョな鼓手長に惹かれるのは貧困と絶望が前提で、彼女は聖書に頼って不貞を悔いもするのだった。

 ベルクは無調を支配的に用いながら、調性的な要素も活かし、三全音を象徴的に用いるほか、形式的には過去の様式をハイブリッドに配合してみせた。3幕全体として三部形式を構えるように、ドラマティックな第2幕の「5楽章の交響曲」を核に、人物を順に提示する第1幕が「5つの性格小品」、殺戮と終結の第3幕は「6つのインヴェンション」を構成している。社会のシステムは形骸化しても辛うじて保たれているが、信仰や生活といった個人の拠所には不安と不穏が渦巻くことの鏡像のように。不条理な世界のなかで、しかしそれでもヴォツェックは激しい愛の物語を絶望的に生きるのである。

 さて、ベルクはフランツォース版の終景を採っていないが、その第28景はマリーの部屋に、こどもを抱く阿呆のカール、ヴォイツェクが登場する。つまり、この時点でヴォイツェクは生きているか、死んだ後の亡霊だ。とはいえ、これらの情景を、整合性をもって並べることが求められるかどうかはそれ自体疑問である。ベルクのオペラの物語配列が、ヴォイツェクの嫉妬と自滅を強調する流れを編んでいるとしても。

 それでも、私が思い出したいのは「コーダは曲冒頭に繋がる」としたベルクの言葉である。こどもはクリスチアーンと呼びかけられているが、これは先述のとおり、実在した殺人者ヴォイツェクのミドルネームに重なってくる。つまり、孤独と悲惨がこの世界では循環を逃れないことが暗示されているのだろう。

 悪意を帯びようともそうでなくとも、さまざまなことが匿名化されるなかで、ありとあらゆる狂気と暴力もまた箍を外していく。もし、そうした傾斜が止まらないのであれば、ヴォイツェクの事件も劇作もオペラも、いつまでも決して鳴りやむことはない叫びとなる。だが、私たちの主人公にはまだスラヴ系の名前があり、どうあれ狂おしく愛する者があったのだ。

 「人間はどいつもこいつも深い淵だなあ、のぞきこむと眼まいがする」と、ヴォイツェクは漏らしていた。事件と裁判の実話があり、それを鋭く省察して戯曲が創作され、それを解釈して音楽表現に結実され、さらなる解釈として新演出が試みられる。どれほど陰惨な情景の連なりであれ、私たちはひとりひとり、その底昏い深淵を覗き込み、眩暈の先に歩き出さなくてはならないのだろう。

(本文中の引用は、河出書房新社版『ゲオルグ・ビュヒナー全集』所収の岩淵達治・内垣啓一・手塚富雄の訳文による)

新国立劇場オペラ 2025/26シーズン
ベルク《ヴォツェック》新制作

全3幕(ドイツ語上演/日本語及び英語字幕付)

2025.11/15(土)14:00、11/18(火)14:00、11/20(木)19:00、11/22(土)14:00、11/24(月・休)14:00
新国立劇場 オペラパレス
予定上演時間:約1時間35分(途中休憩なし)

指揮:大野和士
演出:リチャード・ジョーンズ

出演
ヴォツェック:トーマス・ヨハネス・マイヤー
鼓手長:ジョン・ダザック
アンドレス:伊藤達人
大尉:アーノルド・ベズイエン
医者:妻屋秀和
第一の徒弟職人:大塚博章
第二の徒弟職人:萩原 潤
白痴:青地英幸
マリー:ジェニファー・デイヴィス
マルグレート:郷家暁子

合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:TOKYO FM 少年合唱団

管弦楽:東京都交響楽団

問:新国立劇場ボックスオフィス03-5352-9999
https://www.nntt.jac.go.jp/opera/
https://www.nntt.jac.go.jp/opera/wozzeck/