音楽評論家・矢澤孝樹が選ぶ
2023年マイ・ベスト・ディスク

文:矢澤孝樹(音楽評論家)

 音楽配信主流の時代において「ディスク」の存在意義は、「録音作品としての総合力」だと考えている。内容、ライナーノーツ/解説、パッケージ、デザイン、ヴィジュアル、「モノ」としての実在感。それらが揃っての「総合作品」としてのディスク。この本質が見失われないことが、ディスクの未来を担保する。

 幸いにして、クラシック音楽においても「総合力」の高いディスクはとても増えている。パッケージの点では豪華な国内制作盤は控え目になり(ロック/ジャズ系ではとてつもない仕様の旧譜復刻デラックス・エディションが出るが)、輸入盤に日本語解説を簡素な冊子で外付けする「国内仕様盤」が多くなった。だが解説は原盤訳にせよ国内ライターの執筆にせよ、概して内容が濃く、情報量も読みごたえも十分だ。
 それはとりもなおさず、内容の充実に牽引されてのことでもあろう。従来型の「名曲の名演の収録」というクラシック・ディスクの定型的な在り方はもちろん今も健在だが、アーティストの意識の高まり、研究熱心で意欲的な姿勢やユニークな発想が反映された企画と先進的な演奏が一体化した、優れたディスクの数もとても増えた。

 というわけで前置きが長くなったが、そのような「総合力」を感じさせるディスクを各ジャンルから選びたい。編集部が例示してくださったジャンルに対応して選ぶが、実はジャンル間の流動性が高くなっていることも、各盤の紹介から感じていただけるだろう。正直、どこに分類すべきか悩むものが多いのだが、悩みが大きいほど、既存の価値観に収まらない新たな問いかけがなされていると解し、積極的に選んでみた次第。そして、あらゆる意味で突出した一枚を、ジャンルを超えた「総合ベスト」として選んだ。また、協奏曲はオーケストラ音楽ともまた異なる独自のジャンルだと思うので、一項目を建てたことをお断りしておく。

【総合ベスト】

『聖母マリア/母マリア/娼婦マリア』
アンナ・プロハスカ(ソプラノ) パトリツィア・コパチンスカヤ(ヴァイオリン) カメラータ・ベルン[Alpha]

 「マリア」をモティーフに、歴史において抑圧され続けた女性たちの「声」を楽曲と演奏により演劇的に再構築する、まったく非凡でかつ現代的な発想のコンセプト・アルバム。マルタンの「マリア三部作」を核にヒルデガルト・フォン・ビンゲンからクルターグ、クラムまで組み合わせ、各時代の演奏様式を切り替えつつ一貫性を持たせた演奏家たちの恐るべき柔軟さ。そして聖性から魔性まで、あらゆるキャラクターを演じ切るプロハスカとコパチンスカヤ。もはやジャンル分け不能。2023年におけるもっとも先進的で挑発的な演奏がここにある。

【オーケストラ】

『メンデルスゾーン:交響曲第4番《イタリア》1833年初稿&1834年最終稿』
ジョルディ・サヴァール(指揮) ル・コンセール・デ・ナシオン[Alia Vox]

 既知の名曲の演奏はそれ自体常に更新されてゆくが、あらためて楽譜を見直し、異稿や異版を積極的に取り上げ、曲の「あり得た発展の可能性」を探求する録音が印象に残った。ポシュナーのブルックナー交響曲シリーズ(Capriccio)やウィルソンの「ダフニスとクロエ」(Chandos)などが挙げられるが、大巨匠サヴァールの飽くなき探求精神が表明されたメンデルスゾーンをまず選びたい。改訂版はガーディナーの録音もあったが、サヴァールは初稿と並べ、顧みられない改訂稿の入り組んだスコアを新鮮に響かせ独自の価値を称揚する。
 逆に、編曲による可能性の拡大として、ピノックのバッハ:パルティータ室内管弦楽版(Linn)やポッジャーの“ゴルトベルク・リイマジンド”(Channel Classics)、フェルベークのブルックナー:交響曲第6番アンサンブル版(Gutman)も挙げておこう。
 また、秀盤相次いだ日本のオーケストラの中で、村川千秋と山形交響楽団のシベリウス:交響曲第3番他(妙音舎)と鈴木秀美指揮オーケストラ・リベラ・クラシカのハイドン:交響曲第3&102番、ベートーヴェンの交響曲第8番(Arte dell′arco)の2枚をそれぞれ「地方」「ピリオド」の側面から挙げておきたい。

【協奏曲】

『ハープシコード協奏曲集(マルティヌー、クラーサ、カラビス)』
マハン・エスファハニ(チェンバロ) アレクサンダー・リープライヒ(指揮) プラハ放送交響楽団[Hyperion]

 歴史的チェンバロの復興によって駆逐され、前時代的楽器の烙印を押されたばかりか美的価値まで否定された不幸な楽器モダン・チェンバロ。だがこの楽器のために書かれた20世紀作品を当の楽器で演奏することはHIP的に正解、と逆転の発想で臨んだエスファハニに拍手喝采だ。
 やや近いがHIP発想で新古典主義を再解釈するファウスト&ロトのストラヴィンスキー:ヴァイオリン協奏曲他(Harmonia Mundi)、バッハをミニマリズムの視点からとらえグレツキやアダムズと力技でつなぐベスティオンらの『バッハ・ミニマリスト』(Alpha)、吟遊詩人のようなラドロヴィチのベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲(Warner)など、このジャンルも刺激に満ちていた。

【ピアノ(鍵盤楽器)】

『C.P.E.バッハ:ヴュルテンベルク・ソナタ集』
キース・ジャレット(ピアノ)[ECM]

 1994年の未発表録音の初発売だが、この偉大なジャズ・ピアニストが残したクラシック作品録音の中でも傑出した内容であり、即興的身振りと音楽との共振、精神性の近さ、いずれをとってもC.P.E.バッハの世界に自然に一体化している。モダン・ピアノによるこの時代の音楽の、真に先駆的な演奏。
 他には歴史をまたぎ複数の楽器を駆使するロマニウク『Perpetuum~無窮動』(Alpha)、メルニコフ『ファンタジー』(Harmonia Mundi)などが聴き手の視界を拡げる。メルニコフ盤とレヴィット『ファンタジア』(ソニーミュージック)の比較も面白い。そして多彩なミニピアノで魅惑する川口成彦『おはよう』(MUSIS)、清水美子が多重録音を駆使しクラムを鮮やかに蘇らせた「天界の力学」(Kairos)も鍵盤の多様性を実感させる。オラフソンのバッハ:ゴルトベルク(ドイツ・グラモフォン)はもはや未来の楽器による演奏のようだ。

【器楽(室内楽)】

『GRID//OFF』/LEO(箏)[日本コロムビア]

 LEOの最新アルバムがとにかく驚愕だった。ライヒ、坂本龍一、デリック・メイ(!)、ティグラン・ハマシアン(‼)という選曲だけでも、箏の新たな可能性を切り拓こうとする意気込みが伝わってくる。網守将平や坂東祐大の新作もある。一方で自作は伝統と現代をしっかりつなぐ。まったく新しい領域が切り拓かれてゆくのを感じる。坂本龍一「Andata」の演奏は、クラシック側からの坂本龍一演奏のもっとも見事な解釈のひとつであり、最高の追悼でもある。
 一方、かつて衝撃的に斬新だったコパチンスカヤとサイのコンビが復活し(Alpha)、ますます凄まじくなっていたのも頼もしかった。

【声楽曲/オペラ】

『ストラヴィンスキー:結婚(1919年オリジナル版)』
マチュー・ロマーノ(指揮) アンサンブル・エデス レ・シエクル[Aparté]

 ピアノラ(自動ピアノ)やツィンバロンを用いる予定だった《結婚》初期構想を復元し、強烈な声を重ね、原始と未来が交錯する時空をつくりあげたこの一枚がとにかく圧倒的だった。ラヴェル「ボレロ」の声楽版という尋常ならざる発想も、曲から呪術性を引き出し驚愕。
 一方でハンニガンとエマーソン弦楽四重奏団共演の『終わりなき航海』(Alpha)は声と弦楽四重奏により死や破滅と向かい合うダークで美しい一枚で、プロハスカ/コパチンスカヤの『マリア』とも響きあう。これも声楽曲と室内楽の両ジャンルにまたがる。対照的だがデザンドレ&ダンフォードのジャンルを超えた『イディール』(Erato)も忘れ難い。
 オペラではラヴェル:《スペインの時》をロトがブラッシュ・アップしたのが併録「ボレロ」共々鮮烈だった(Harmonia Mundi)。

【古楽】

『目を凝らしてじっと見つめ』
ハリー・クリストファーズ(指揮) ザ・シックスティーン[Coro]

 以上のような多様な価値観の発見と新しい演奏の可能性を切り拓いてきた先導者は間違いなく古楽演奏だが、いまやその方法論が他ジャンルに十分に浸透しているのも実感できるだろう。当の古楽演奏では、バードと周辺作曲家、さらに現代作品も重ねて信仰と権力の問題に光を当てるザ・シックスティーンの録音をまず挙げたい。
 そして古楽=ピリオド楽器という図式に、モダン演奏で新たな地殻変動を起こすケラス&タローのマレ(Harmonia Mundi)、青柳いづみこ『仮面のある風景』(タカギクラヴィア)などに注目したい。一方でファウストの『ソロ』(Harmonia Mundi)はこの21世紀型ヴァイオリニストがバロック領域を完全に手中に収めた証明だ。このジャンルではやはり現在進行形で「もっとも新しいこと」が起こり続けている。濱田芳通のファン・エイク『「笛の楽園」よりVol.2』(キングインターナショナル)もそのひとつだろう。
 そして最後に、ラ・フォンテヴェルデのモンテヴェルディ:マドリガーレ集第9巻(Arte dell′arco)が発売され、この記念碑的全集が完結したことを祝したい。

【Profile】
矢澤孝樹(やざわ・たかき)
1969年山梨県塩山市(現・甲州市)生。慶應義塾大学文学部卒。水戸芸術館音楽部門に19
年勤務、主任学芸員を務める。2009年弟の逝去を機に帰郷。2013年からニューロン製菓(
株)代表取締役社長、および2018年から(株)アンデ代表取締役社長。甲府市食品団地理
事長。並行して『レコード芸術』(休刊)、『CDジャーナル』、『モーストリー・クラシ
ック』、『ぶらあぼ』、朝日新聞クラシックCD評、演奏会・CD解説など音楽執筆活動を行
う。『新時代の名曲名盤500+100』『クラシック・レーベルの歩き方』『クラシック不滅
の巨匠たち』(音楽之友社)など共著多数。山梨英和大学「メイプルカレッジ」での音楽
学者・広瀬大介氏との共同講座、および各種演奏会のプレトーク等を務める。山梨日日新
聞にて「やまなし文化展望」を連載中。