文:青澤隆明
だが、キット・アームストロングはまだ春のさなかにいる。その若さには、黄昏は似合わない。それは強い光彩を放つ意志なのである。
「東京・春・音楽祭」で気宇壮大に、しかしキット・アームストロング自身にとっては当たり前というように、ごく平然と自然体で語られた『鍵盤音楽年代記』の話のつづきをしよう。
プログラムを具体的にみていくと、東京文化会館小ホールでくり広げられたこの『鍵盤音楽年代記』では、1520年から2023年まで、100年ごとに5つのプログラムを編み出し、各章をそれぞれ固有のテーマのもとで展望するキュレーションが採られた。
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エイプリル・フールの第1夜から、【1520-1620:The Golden Age】で、いきなり黄金時代が訪れる。黄金時代を訪ねる、と言ったほうがよいのか、イングランドの天才たちが拓いたホライズンへの航海に乗り出していく。
ちなみに、キット・アームストロングは、2021年リリースの最新CDでウィリアム・バードとジョン・ブルの作品を巧みに織りなし、アルバムを“The Visionaries of Piano Music”と題していた。バード(鳥)とブル(牡牛)のエッチングもお洒落に添えられていて、天と地の双方へと広がる鍵盤音楽の冒険の未来を暗示させるようなデザインである。
さて、『鍵盤音楽年代記』はまず、トマス・プレストン作と伝えられる「ラ・ミ・レの上で」を快活な挨拶のように奏でて幕開けし、ブル、ファーナビー、バードと辿っていく。後半ではさらにバードから、タリスを経て、スウェーリンクの幻想曲へ。「ファンタジア(幻想)」が要所に織りなされ、本プログラムの主題のひとつともなっている。当時の音楽家たちが愛奏した鍵盤楽器から一種の翻訳がなされるものの、キット・アームストロングは現代ピアノの豊潤な響きを精細にコントロールして、しっとりと歌わせつつ、線とリズムを精緻に綾なす。即興的な感覚に拓かれ、声部の自発的な対話がくり広げられていく。ベーゼンドルファーの響きのふくよかさが、大らかな感情を空間に息づかせる。豊潤な情趣は鮮やかに行き交うが、楽器のコントロールの精妙さを得て、それが声部の自律的な活動でひらかれていくさまが鮮やかで、聴いていて楽しい。
アンコールでは次代、つまり次なる世紀の章を予見させるように、バッハのオルガン小曲「おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け」を弾き、とても大地的というか、人間的で地上的な情趣を慎ましくも歌った。
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4月4日の第2夜、【1620-1720:Contrast】の端緒には、前回のアンコール曲も収められたバッハの『オルガン小曲集』BWV599~644から、6つのコラールが選ばれた。輝かしさ、メランコリー、悲しみ、嘆きといった種々の人間感情を、対位法芸術の筆致に宿して濃やかに歌い継いでいくのだが、6曲の選集でちょうど組曲的に諸相を抽出するのが、いかにもこの奏者らしい聡明な構成である。
ヘンデルの『ハープシコード組曲』第5番ホ長調 HWV430では、光明に満ちた幕開けから、エレガンスとともにオルガン的な響きの豊潤さが加わり、垂直的な響きの柱と水平方向の横溢が劇的な表情を織りなしていった。続いて、ト短調組曲 HWV432の終曲パッサカリアが、対位法の壮麗さで劇化した高揚を築く。前回にも登場したブルの、「地の偉大なる創造主」の聖歌が、どこか素朴に前半を結んだ。
プログラム後半はフランスの対位法芸術へと旅し、ルイ14世の寵愛を受けたエリザベト・ジャケ・ドゥ・ラ・ゲールのクラヴサンのための第1組曲の、荘重な悲劇性を湛えた「前奏曲」と、憂いつきの仕草をもつシャコンヌ「移り気な女」からはじめ、クープランの『クラヴサン曲集』から4曲を多様な情趣や装飾とともに豪勢に織り込んでいく。作品の時代様式を尊重しつつ、現代ピアノの音響や機能を活かし、いかに自由を発色させ、鋭敏な想像力を、広範な知を資材に繰り広げていくか。名手の実践は、それを演奏の愉悦のもとに明かしていくようだ。
シャンボニエールのヘ長調のシャコンヌがゆったりと大きな優美さでフランス・バロックの旅を結ぶと、イタリアが誇るヴィヴァルディをバッハのクラヴィーア協奏曲を通じてまなざす。そのト長調協奏曲 BWV980がイタリアの光彩と律動に充ちるなか、中間楽章ラルゴでの演奏が鋭く悲痛な宣告と、秘めやかに内密な哀感で、簡明さのうちに感情の深みを示した。バッハの傑作「半音階的幻想曲とフーガ」BWV903によるプログラムの結びが、斬新な和声と濃密な律動を際立てる。アンコールにはC.P.E.バッハの「アリ・ルーパリヒ」を弾いて、絶妙に次代へのページを捲ってみせた。
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4月6日の第3夜、【1720-1820:Enlightenment of Heart and Mind】は、バッハからベートーヴェンにいたる啓蒙主義の世紀。J.S.バッハの『平均律クラヴィーア曲集』第1巻のハ長調から第2巻の変ロ短調へ進んで激烈なフーガで高揚を結ぶと、ハイドンのヘ短調変奏曲 Hob.XVII:6ではパセティックな激情を歌う。つまり、ここへきて音楽が扱うのは明らかに人間の問題となっている。
モーツァルトのハ長調ソナタK.330では、さらに個人的な領域に入ってきて、輝かしい喜びが人生を謳歌するようだ。輪郭がくっきりと、すべてが明確で、対位法も簡明にみえる。
プログラム後半はファンタジックな傾斜を描くべく、C.P.E.バッハ最晩年の「自由な幻想曲」嬰へ短調 Wq.67、モーツァルト最期の年に書かれた「自動オルガンのための幻想曲」へ短調 K.608を経て、ベートーヴェンの「幻想曲風ソナタ」嬰ハ短調 op.27-2で19世紀へ突入していく。
唐突さと即興性に充ちたC.P.E.バッハの「自由」から、モーツァルトでは陶質の澄んだ響きを採り、ベートーヴェンでは直観や諦観をもって、より大きく人間感情を謳歌する。その「プレスト・アジタート」のフィナーレでは煽情的にドラマへと没入するが、しかし音はすみずみまで滾らせず、ストレートに理性の光を保っている。キット・アームストロングの演奏は、激しく劇化する主情や想念と、それを観測する両面を併せもつ様相をとる。もっとバロック的に対位法的に創意を、あるいはロマン主義的に心情を描き込むこともできたのではないか、と考えられた向きは、これが「啓蒙主義の心と精神」を主題とした展望だったことを思い出されるとよいだろう。
“月光ソナタ”の後のアンコールには、時を隔てて、武満徹の「雨の樹素描 Ⅱ」が弾かれたが、これが信じがたいほど優美で流麗な演奏だった。減衰の方向を追い求めるのではなく、満ち満ちた響きとして空間に、繊細かつ豊潤な美を構築するのが、ヨーロッパ的な抒情やイマージュのありようだとして、その極致ともいうべき描出が実を結んでいた。人間の目、心や精神に移る自然の象形というのがこのときの演奏の主眼であろう。際立った響きの美しさと広がりに触れ、見事なまでの達成に息を呑んだ。まったき西洋的な統制感覚による巧緻な造型ではあるものの、はたして、これほどまでにただ美しい武満を聴いたことはあっただろうか、と私は感じていた。ベートーヴェン的な心象の延長に精密に結ばれたイマージュとみていい。東京文化会館を出れば、満月。まさにそういう夜の演奏だった。
(つづく)
【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら
音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。