菊池洋子(ピアノ)

人生をゴルトベルクとともに歩んでいく

(c)Marco Borggreve

 鍵盤楽器奏者憧れのレパートリーの一つである、J.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲」。菊池洋子も20年にわたり目標とし続けてきたという。

 「魅力に開眼したのは、留学中だった20代前半、ボローニャで聴いたアンドラーシュ・シフさんの演奏でした。初めて作品の姿がはっきり見えたのです。楽屋を訪ねてその感激を伝えると、シフさんは『自分は若い頃から数十年、毎年これを演奏会で弾き続けている。あなたがそんな感想を言ってくれるのはその成果かと思うと嬉しい』とおっしゃったのです。それを聞き、これは簡単に弾いていい曲ではないのだと思いました。以後、2回ほど取り組みましたが、自分の中で演奏会で弾くまでには至りませんでした」

 そして2020年3月、コロナ禍で演奏会がなくなる中、「この機会に、今度こそ人前で弾くところまで仕上げよう」と決意。すると思いがけない支援者が現れた。

 「イタリアの友人で、音楽祭を自ら主催する愛好家の方が、『それならいろいろな録音を聴くといい』と音源を送ってくれるようになりました。外出できない中、日課にしていた2時間半の朝の散歩でそれらを聴いていると、不安が消え、『ゴルトベルク変奏曲』が心の支えになりました。さらにその友人が、『毎日練習した変奏曲を聴かせて』と言ってくれたことをきっかけに、日本時間夜7時にオンラインで(イタリアに向けて)成果を披露することが日課になりました。そのお宅にゲストがいると彼らの前で弾くことになるので、毎日必死です。コロナ禍は、これまでの人生で一番練習していましたね(笑)」

 さらにバッハの時代の楽器を知るべく、チェンバロの曽根麻矢子の教えも受けた。

「現代ピアノと違い、レガートもすべて指で表現しなくてはいけませんし、強弱もつけにくい。だからこそ、音の色やハーモニーをよく聴く必要があります。現代ピアノに戻った時の表現にとても生かされました」

 優れた録音も多い中、どのように自分の表現を見つけたのだろうか。

「シフさんやバレンボイムさんなど、お気に入りの録音はもちろんあります。でも『ゴルトベルク』はその人の人生を表す曲だと思っているので迷いはなく、1時間20分の音楽で人生の日記をつけていく感覚で臨みました。すると不思議なことに、弾いていると忘れていた過去の出来事を思い出すのです。また、録音は飽きずに何度も聴いてもらえるものにしたいと、余計な装飾を加えず、繰り返しでも必要以上の変化は控え、バッハが書いたままの音で演奏しました」

 シフのように今後は毎年演奏会で取り上げ、「人生をゴルトベルクとともに歩んでいく」つもりだという。

「生まれてからいろいろなことが起き、最後は始まりに戻って、新しい希望が訪れる。そんな作品を弾いていると、音楽は祈りだと感じます」

 かけがえのないライフワークを得た菊池。何度も演奏する中、「毎回、命と人生を捧げる気で臨まないと、心が満たされる最後の感覚は得られないと知った」と話す。これから毎年、演奏はどう変化していくのだろうか。
取材・文:高坂はる香
(ぶらあぼ2023年7月号より)

2023.8/4(金)19:00 サントリーホール ブルーローズ(小)
問:チケットスペース03-3234-9999

https://www.ints.co.jp/yokokikuchi-0804p.html

他公演
2023.7/29(土) 和歌山/LURUホール(073-457-1022)※配信あり
7/30(日) 兵庫県立芸術文化センター(小)(0798-68-0255)※完売

CD『バッハ:ゴルトベルク変奏曲』
avex classics
AVCL-84146
¥3300(税込)
2023.7/12(水)発売予定