小倉貴久子(フォルテピアノ)

最後の3つのソナタには天空の星=神の煌めきがあります

(c)Tomoaki Umino

 フォルテピアノ奏者の小倉貴久子がベートーヴェンのソナタ第30〜32番(作品109〜111)をALMレーベルに録音、『nuovo vivente(ヌオーヴォ・ヴィヴェンテ=新しく生きている)』のタイトルでリリースした。第27〜29番を収めた『ハンマークラヴィーア』の続編に当たるが「最後の3曲は先行する3曲をまたひとつ、超えた領域に存在する」と、小倉は考えている。

 例えばベートーヴェンの「不滅の恋人」、薄幸のうちに亡くなったヨゼフィーネ・ブルンスヴィックへの追憶と目される第31番。

 「第2楽章のドミナント和音からそのまま第3楽章へ入り、レチタティーヴォで心情を独白した後に始まる“嘆きの歌”はカンタータに近く、深い喪失感の表明です。この部分が暗黒というか、無に帰していく先に、ヨゼフィーネのテーマのフーガがあります。ベートーヴェン後期の作品はバロック音楽の技法も積極的に取り入れていますが、この嘆きはさらに特殊です。インド思想への傾倒からか、前の響きを残したまま反行テーマが始まり、フワフワと縮小拡大を続けるあたり、魂が生き続ける輪廻転生のあり方を示しているようにも思え、『ヌオーヴォ・ヴィヴェンテ』と名付けました」

 もちろんシラーの文学、カントの哲学からの影響も後期では一段と深まり、「大切な要素が絶えず“超越”と結びついている」という。

 「『第九』第4楽章に使われたシラーの『歓喜に寄す』の歌詞には天空の星、つまり神が現れます。『僕も亡くなったら、あそこに行く』という星たちへの思いが反映されているとしたら、後期作品のトリルは星の煌めきだと考えられ、現代ピアノのカーンとした高音よりも、フォルテピアノの方が、この世のものとは思えないキラキラ感を表現できるはずです」

 録音に使用したフォルテピアノは1845年、ヨハン・バプティスト・シュトライヒャーが製作したウィーン式の楽器。

 「ポイントはまず、革製のハンマーです。初期のフォルテピアノに比べ革巻きの層が厚くなり音の減衰速度がゆっくりである一方、子音が人の言葉のように立ち、母音が豊かに響くため歌の要素が際立ちます。弦の張り方も現代の交差弦と違って平行弦なので、各声部の音が混じらず明瞭に聴こえ、音域による音色感の違いも反映させやすいのです。第32番の冒頭はフォルティッシモではなくフォルテなのですが、絶対音量ではない“雑音の凄み”のようなニュアンス、ギリギリ感も余力のない楽器だからこそ出せた気がします」
取材・文:池田卓夫
(ぶらあぼ2023年5月号より)