ヴァシリー・ペトレンコ指揮 ロイヤル・フィルのショスタコーヴィチ交響曲第8番

この春、英国ロイヤル・フィルを率いて、辻井伸行とともに日本ツアーをおこなうヴァシリー・ペトレンコ(Vasily Petrenko)。ウクライナ情勢を受けて、母国のロシア国立響音楽監督を辞任した彼が、このツアーのために選んだのがショスタコーヴィチの交響曲第8番(Bプロ)です。いつの世も芸術家は時代や社会に翻弄されてきましたが、このシンフォニーも例外ではありません。本稿では、あらためてこの作品の成立や時代背景、作品の聴きどころについて、音楽ライターの林昌英さんに解説していただきました。

ショスタコーヴィチ:交響曲第8番 ハ短調 作品65

文:林 昌英

 早くから天才作曲家と称えられながら、当局の批判で危機にさらされるなど、生涯にわたりソヴィエトで栄光と苦難を味わったドミートリー・ショスタコーヴィチ(1906〜1975)。彼の創作の柱となる15の交響曲のうち、第8番は特別な傑作のひとつに挙げられる。

 1941年、独ソ不可侵条約を破ったドイツ軍がソヴィエトに侵攻を開始。この独ソ戦で、9月にはレニングラード(現サンクトペテルブルク)が包囲され、44年1月まで封鎖が続いた。この「レニングラード包囲」にはショスタコーヴィチも現地で巻き込まれたが、消防隊に参加して、市民を鼓舞する声明も発表。さらに同地で作曲に取りかかり、疎開先のクイブイシェフで41年12月に完成した交響曲が「レニングラード」と呼ばれる第7番で、世界的な注目を浴びた。
 その後、ショスタコーヴィチがモスクワに移った1943年には、戦況はソヴィエト有利に転じ、生活も改善し始めていた。しかし、前線の現場での緊張感やある種の高揚感と、そこから離れて状況を客観視したときの感情の違いは大きかったに違いない。戦争の悲惨な現実を伝えるニュースを連日目にし、自分を追い詰めたスターリン体制が強化されていく空気も感じながら過ごすなか、新たな交響曲への意欲が湧き出ていた。そして、43年の7月2日から9月9日、わずか2ヵ月で一気に書き上げられたのが交響曲第8番である。

 前作のような注目を浴びる状況ではなかったが、完成2ヵ月後の11月には初演に至り、高い評価もあったものの、反応の多くは冷ややかな評価や動揺だった。第7番は壮大な音響で聴衆を盛り上げる音楽だったが、第8番は観念的で、重苦しさや悲劇性が横溢しており、「戦争の勝利が見え始めた時期に、このような暗い作品を作るとは」といった批判も受けた。
 作曲者自身は完成直後のインタビューで「本作は描写的ではないが、自らの思索と体験が反映されていて、内面的で悲劇的ではあるが、全体として楽天的で人生肯定的な作品である」といったことを語っている。ソヴィエト時代、殊にスターリン体制下での発言は、全てを額面通りに受け取れないことは前提となるが、このコメントについては「思索と体験の反映」という説明には矛盾がないし、前線の緊張から離れて、心身ともに充実した状態で作曲に臨めた達成感はあったに違いない。

Vasily Petrenko ©Svetlana Tarlova

 翌年開催された作曲家同盟の総会では「第8番の失敗の理由は、第7番の勝利の路線ではなく、深刻な体験や苦痛が克服されず、その代わりにパッサカリアとパストラールに置き換えられていること」と、失敗が前提とはいえ、ある意味では的確ともいえるような評価を受けている。たしかに、第3楽章までの悲劇性や暗さが、静謐なパッサカリアの第4楽章と浮遊感のあるパストラール風の第5楽章では解決されていない、と感じられる向きもあることは否定できない。しかし、物事を単純な白黒で分けられない状況が明らかになった時期の作、希望とも諦念とも受け取れる穏やかな終結は、前作以上の普遍性を獲得しているとも考えられよう。
 果たして、第8番は国内外で取り上げられ続け、ショスタコーヴィチを代表するシンフォニーとして、さらには第二次世界大戦下という特殊な時代を象徴する芸術作品としても広く認められていった。そして、理不尽な侵略や殺戮が過去のものではなく、どこでも起こり得るものであると改めて思い知らされる現在(いま)、第8番の伝えるメッセージの価値は高まる一方である。

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 本作を聴くポイントは、冒頭の低弦にすぐに現れる「ド-シ♭-ド」の動きにある。この二度下がって(または上がって)戻るモチーフが、全楽章を緻密に支配していき、約60分の全曲に統一感を与えていく。

 アダージョの第1楽章は全曲の半分近い長さを占める。弱音の緊張感や張りつめた美しさから、血塗られたような不協和音の轟音まで、真に迫る場面が連続する、ショスタコーヴィチ渾身の傑作楽章である。皮肉で奇怪な第2楽章、ヴィオラから始まる無機的な動きが圧迫感と奇妙な興奮を生み出す第3楽章も強く印象に残る。低音に主題が繰り返されるパッサカリア形式の第4楽章は冒頭以外は弱音に支配され、ユーモラスなファゴットで始まる第5楽章はどことなく田園的で不思議な明るさをもつ。全曲最後は二度のモチーフ「ド-レ-ド」が何度も奏でられ、澄み切ったハ長調の響きに溶け込んでいく。

©Svetlana Tarlova

 ヴァシリー・ペトレンコ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の2023年5月の日本ツアーは、ショスタコーヴィチの交響曲第8番が選ばれていることが話題になっている。2021年、ロシア出身の指揮者ヴァシリー・ペトレンコはロイヤル・フィルの音楽監督に就いたのと同年、モスクワのスヴェトラーノフ記念ロシア国立交響楽団の芸術監督にも就任。後者は母国の名門で、待望のポストだったはずだ。しかし、彼は22年2月のロシアのウクライナ侵攻を非難し、直後の3月にロシア国立響音楽監督を辞任。強固な意思を示したのである。

 その彼がツアー演目に選んだ、ショスタコーヴィチの第8交響曲。ペトレンコによると、このプログラムはロシアのウクライナ侵攻の前に決まっていたという。図らずも今日的な意味をもつ演目になったとのことだが、結果的にではあっても“いま、この人でこそ聴きたい”プログラムが、この上ないタイミングで実現することになる。もとより本作は彼の得意演目であり、リヴァプールの楽団との録音もすばらしい出来。そこで聴ける水準の演奏が実演で体験できるとすれば、ますます聴き逃がすわけにはいかない。

Royal Philharmonic Orchestra ©️Ben Wright

Column
 名作だけに、本作の録音は数多くあり、真摯な演奏はすべて傾聴に値する。とはいえ、20世紀冷戦時代の著名な録音は押さえておきたいところ。
 ショスタコーヴィチに認められた指揮者で本作の初演者、エフゲニー・ムラヴィンスキーの録音はやはり必聴で、有名な1982年ライヴは避けて通るわけにはいかない超名演(発売当初のピッチが高いPhilips盤ではなく、修正したAltus盤がいい)。また、同様に作曲者の信頼厚かったキリル・コンドラシンの全集版の録音も押さえたい。両指揮者とも違うタイプだが、それぞれに凄絶極まりない表現で作品の本質を示す名演ぞろい。
 西欧で最初のショスタコーヴィチ交響曲全曲録音として実現した、ベルナルト・ハイティンクとコンセルトヘボウ管の録音は、オーケストラの音色の魅力も相まって深く音楽的。ソヴィエト崩壊前年、ショルティとシカゴ響の強烈な演奏も外せない。
 冷戦後の新しい録音もそれぞれに長所があるが、ヴァシリー・ペトレンコ指揮ロイヤル・リヴァプール・フィルの録音は、細部まで彫琢された音が明瞭に聴こえ、スコアが見えてくるようなサウンドを作りながら、攻めた表現や熱気もかなりのもの。十分に現代の名盤のひとつに数えられよう。

  1. Kirill Kondrashin & Moscow Philharmonic Symphony Orchestra
  2. Bernard Haitink & Concertgebouw Orchestra

3. Sir Georg Solti & Chicago Symphony Orchestra
4. Vasily Petrenko & Royal Liverpool Philharmonic Orchestra

【Information】
ヴァシリー・ペトレンコ指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

ピアノ:辻井伸行
プログラムBの日程
5/21(日)14:00 大阪/フェスティバルホール
問:ABCチケットインフォメーション 06-6453-6000
5/23(火)19:00 群馬/高崎芸術劇場
問:高崎芸術劇場チケットセンター 027-321-3900 完売
5/26(金)19:00 東京/サントリーホール
問:チケットスペース 03-3234-9999

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番(ピアノ 辻井伸行)
ショスタコーヴィチ:交響曲第8番

※ツアー全公演の日程詳細は下記ウェブサイトからご覧ください
https://avex.jp/classics/rpo2023/