ガンバレ!吹奏楽部!ぶらあぼブラス!vol.6
秋田県立秋田南高等学校 吹奏楽部

コロナ禍も3年目、ぶらあぼ編集部では多くの音楽家から吹奏楽部の苦難の状況を耳にしてきました。そこで吹奏楽と言えばこの方、吹奏楽作家のオザワ部長に登場いただき吹奏楽部を応援する企画を始めます。まだマスクが取れない日々ですが、音楽へひたむきな情熱を燃やす若者の姿は、見ている私たちも元気にしてくれます。

取材・文・写真:オザワ部長(吹奏楽作家)

 毎年10月に開催される全日本吹奏楽コンクール(全国大会)は日本中の吹奏楽部員が憧れる夢の舞台だ。その会場である名古屋国際会議場センチュリーホールで「奇跡」のコンサートが開催された。2022年の全国大会の約2カ月後、12月17日のことだった。

 もともとそれは「悲運」から始まった。

 昨年、秋田県の名門として知られる秋田県立秋田南高校吹奏楽部は通算32回目の全国大会出場が決まっていた。

 部長でファゴット担当の3年生、高橋初実は全国大会への思い入れが強かった。2020年、高1のコンクールはコロナ禍で中止。高2では念願の全国大会出場を果たすものの、本番の演奏でミスをした。

「次こそは全国大会でミスのない演奏して、金賞をとろう!」

 そんな思いを持ちながら部活を引っ張ってきた。

 ところが、初実たち3年生にとって高校生活最後の全国大会を目前にして、吹奏楽部に異変が起こった。名古屋への出発まで1週間となったとき、部内に新型コロナウイルスの陽性者が出たのだ。感染はあっという間に広がっていった。悪夢のような状況だった。

高橋初実さん(2022年12月17日・名古屋国際会議場センチュリーホールにて)

 音楽面のリーダーである副指揮者を務めていたファゴット担当の3年生、清水繭子は早い段階でコロナが陽性判定となった。

「まさか自分がかかるなんて……」

 繭子は検査結果を知って愕然とした。発熱は39度台に達し、喉の痛みや咳に苦しめられた。

 中学から吹奏楽に打ち込み、集大成として位置付けていた最後の全国大会。それが繭子の前から消えていった。悲しみや悔しさだけでなく、自分の欠場で音楽に穴が空くことが申し訳なかった。

 部長の初実はなんと名古屋への出発当日に、抗原検査で無情にも陽性判定を受けた。

「終わったな。全国大会のために頑張ってきたのに、いままでの努力は何だったんだろう……」

 初実は名古屋行きを断念し、やりきれない悲しみに沈んだ。

 次々と陽性者が増えていく中、同部のOBでもある顧問の奥山昇先生は強く自分を責めた。

「こうなってしまったのは私の責任ではないか」

 先生にとっては長い吹奏楽人生でもっともつらい1週間だった。出場辞退も頭をよぎったが、欠場が決まった部員からの「何としても残った人たちで全国大会のステージに上がってほしい」というメッセージを受け、出場を決意して秋田を発った。

左より:児玉紗野さん、清水繭子さん(2022年12月17日・名古屋国際会議場センチュリーホールにて)

 最終的にコロナで18人の欠場が決まった。全国大会は55人まで出場できるが、その3割以上を失ったのだ。

 残る37人にサポートメンバー1人を加えて秋田南は全国大会に出場した。演奏曲は、課題曲が前川保作曲《憂いの記憶 – 吹奏楽のための》、自由曲が三善晃作曲・天野正道編曲《管弦楽のための協奏曲》だ。ステージ上には奏者のいない空間がぽっかり空いていた。

 繭子と同じ副指揮者でユーフォニアム担当の3年生、児玉紗野は幸運にも感染せず、全国大会に参加した。2年までサポートメンバーだった紗野にとっては、念願だった初の全国大会。本当なら嬉しいはずだったが、多くの仲間がステージにいない。

「本当なら聞こえてくるはずの音がない。なんて寂しいんだろう」

 紗野は胸を痛めながら精いっぱいユーフォニアムを吹いた。

愛知工業大学名電高校吹奏楽部の合奏室で練習する児玉紗野さん

 初実や繭子たちはその様子を秋田からネット配信で見守り、「勇気を持ってステージに出てくれてありがとう」「頑張れ!」とエールを送っていた。

 38人で音と思いをどうにか繋ぎ、ぎりぎりでつくり上げた12分間の演奏。それは指揮をする奥山先生にも「壮絶」だと感じられるものだった。

 審査結果は、下位3分の1に与えられる銅賞。しかし、もはや結果についてどうこう言う者はいなかった。

 本来の年間スケジュールならば、全国大会が終わった時点で秋田南の3年生は引退するはずだった。

 しかし、全国大会の翌日、8年ぶりに金賞を受賞した愛知工業大学名電高校吹奏楽部からジョイントコンサートの申し出が舞い込んだ。なんと会場はあのセンチュリーホール。悲運に見舞われた秋田南に名電が手を差し伸べたのだ。名電はセンチュリーホールに近く、定期演奏会などのコンサートを同ホールで開催していて繋がりが深いことから可能になったことだった。

 提示されたコンサートの日程は12月17日だった。受験も近づく時期だが、秋田南は思い切って参加を決めた。

 今度はみんなであの舞台に立とう、と。

本番のときはいつも持っていくという伝統の看板
夢の舞台 センチュリーホールでのリハーサルの様子

 そして、全国大会から約2カ月後。奥山先生と部員たちは名古屋へとやってきた。季節は秋から冬に移り変わっていたけれど、心はどこまでも熱かった。

 本番前にステージに出てみると、初実や繭子、紗野たちの目から涙がこぼれた。自分たちがそこに立っていることが信じられなかった。「吹奏楽をやってきてよかった!」と誰もが思った。

 ジョイントコンサートのプログラムは、秋田南と名電の単独ステージがそれぞれあり、最後に合同演奏という構成だった。

 秋田南は単独ステージで福島弘和作曲《百年祭》など2曲を演奏した後、全国大会と同じ課題曲・自由曲を続けて披露した。

『プログラム1番。東北代表、秋田県、秋田県立 秋田南高等学校 吹奏楽部。課題曲5、に続きまして、三善晃作曲《管弦楽のための協奏曲》。指揮は、奥山昇です』

 全国大会と同じ形式のアナウンスの後、演奏が始まった。あの時とは違い、今度はフルメンバーだ。審査も時間制限もない、のびのびした演奏だった。魂が音となってホールいっぱいに広がっていく。この2カ月間の思い――いや、この1年間、繭子や初実たち3年生にとっては3年間の思いが「吹奏楽の聖地」を駆け抜けた。

「吹奏楽の聖地」のステージに立って感極まり、涙を流す児玉さんと清水さん

 その演奏を、名電の部長で3年生、武藤りさも聴いていた。

「奥山先生は、1小節1小節を噛み締めるように力強い指揮をされてるな。部員の皆さんも目をキラキラさせてすごく楽しそう!」

 全国大会の日、秋田南の悲運を知った顧問の伊藤宏樹先生が「悔しかっただろうな」と言っていた。りさはそれが忘れられなかった。秋田南が悔しさを味わったセンチュリーホールで、いま、その悔しさが喜びへと変わっていく。りさはその一部始終を心に焼き付けた。

 演奏が終わると、客席から喝采が巻き起こった。部員たちの目から涙がとめどなく溢れた。

 指揮台を降りた奥山先生はこう思った。

「吹奏楽人生でいちばん苦しい年だった。でも、まさかあの全国大会の2カ月後にこのステージでまた演奏ができるなんて……。吹奏楽はこんな奇跡を起こしてくれるのか!」

 先生の心は震えた。人の優しさに、生徒たちのひたむきな思いと演奏に、そして、吹奏楽の素晴らしさに。「奇跡」だと思った。

 まぶしいライトと鳴り止まない拍手をいっぱいに浴び、秋田南高校吹奏楽部の青春が「吹奏楽の聖地」にきらめいた。

ジョイントコンサートに向けて秋田南に愛工大名電が振付を伝授。音楽を通じて友情を深めた
センチュリーホールのステージで目を潤ませながら記念写真を撮った秋田南と奥山先生

編集長’s voice  – 取材に立ち会って感じたこと –
最初にオザワ部長からこのコンサートの趣旨を聞いた時から感動のシーンの予感が・・・。 そして実際、当日も涙なみだの連続。取材中もそして演奏中も。舞台袖で観ていてこちらまで込み上げてきました。そんな感動のコンサートで印象に残っている場面をひとつ。それは、愛工大名電高校と秋田南高校の合同演奏のリハーサル。初対面とは思えないような笑顔で両校の部員同士が動作の確認をしていたのです。(オザワ部長のYouTubeに動画あり)純粋に吹奏楽が好きな若者同士、一瞬で友達になれるんだなぁとしみじみ思いました。生徒たちにとって、一生忘れられない日になったでしょう。