異才たちのピアニズム 8 トーマス・ヘル(ピアノ)

稀代の名手が魅せる変奏の世界

(c)藤本史昭

 トーマス・ヘルの演奏は、ピアノを弾く愉楽に溢れている。かなりの難曲と思われる大作を前にして、彼の頭脳はもちろん、柔軟で弾力のある身体技巧が冴えわたると、ふつうは困難であるとみえる表現が、ここでは喜悦を呼び覚ますものに変わる。

 リゲティのエチュード全3巻を愉しげに手なづけ、アイヴズの「コンコード・ソナタ」を遊興したヘルのピアノは、高度の知性というものがそのまま心身の喜びに直結することを、強靭な音も誇らしく、鮮やかに明かすものだった。

 驚嘆の前2回に続く、トッパンホールでの三度目の正直は、ベートーヴェンの超大作「ディアベリ変奏曲」をメインに据えたプログラム。ドイツ現代のピアニストが、ドイツ音楽のモニュメントをどっしりと構えるのが楽しみだ。

 変奏の巨匠晩年の境を縦横無尽に駆け巡る同曲は、大宇宙にも擬えてよい気宇壮大な創造物。ヴァリエーションをその前に組み合わせ、先達ハイドンから始めるのはごく明解としても、権代敦彦の「この口づけを全世界に」(2011)と矢代秋雄のピアノ・ソナタ(1961)を並べるのはヘルの独壇場だろう。

 権代曲は「私たちの時代のダンス」を主題とした小品だが、原題の“Diesen Kuß der ganzen Welt”は「第九」の頌歌と繋がる。矢代がピアノ・ソナタの理想型をベートーヴェンのop.109にみたことは、自作が「精神的な影響を多く受けた」というかたちで述べられているが、両ソナタとも終楽章は変奏曲。現代の名手がこれらの文脈をどう明かすのかも興味をそそる。
文:青澤隆明
(ぶらあぼ2022年8月号より)

2022.8/19(金)19:00 トッパンホール
問:トッパンホールチケットセンター03-5840-2222 
https://www.toppanhall.com