Aからの眺望 #1
ある祈り
——アレクサンドル・カントロフの「シャコンヌ」を聴くとき

文:青澤隆明

 産声はAの音——ということをプロローグに書いた。ずっとAの音を唱えるだけでは、旋律にも歌にもならない、だからこその必死な叫びである。朝食を英語でbreakfastと言うのだと教わった中学生のときの気持ちも思い出しつつ、私はこの文を書きはじめている。

 曲のはじまりに、静寂は破られる。そうでなければ、なにごともはじまることができない。そのこと自体が痛みを内包している。そして、はじまったからには、ひとまずつづいていく。それが生命というもので、歌のもつ本質でもある。時の移ろいの似姿ともなる。

 そうして、さまざまな遍歴を凝縮するように、あるいはまずは対立や対比を呼び込み、ついで和解や調和を導くようにして、曲は推移し、変容していく。物語の語りの構造に近いのは、それがやはり人間が生み出してきたもので、だからこそ心のうえでの人形(ひとがた)をなぞっている。

 やがて大きく開いた傷口を閉じるようにして、曲はしまいには静寂に結ばれる。あるいは威勢よく堂々と。いつもそうではないが、多くの曲がそのような遍歴をとる。少なくとも西ヨーロッパの伝統はこのかたちを浸透させた。言い換えれば、私たちはそうした音楽とともに、そのたびに生まれ、出発して、そのたびに着地や帰天を果たしていくのだ。

 たとえばバッハのシャコンヌ、ニ短調のパルティータの終曲のはじまりは、もちろんニ短調の主和音である。D、F、Aと3度を積み上げて、高らかに鳴り響くのはAの音だ。

 ヴァイオリンの無伴奏で書かれたこの「シャコンヌ」を、ブラームスはさらに孤独を深めるように、ピアノの左手のために編曲して、『5つのエチュード』の結びに置いた。「練習曲」とは、バッハやショパンにならえば、心身ともに技巧を高めるための音楽だろう。

 左手のための編曲のきっかけは、右手を故障したクララ・シューマンを想ってのことだったという。ブラームスがこうして片方の手のためにまとめたことはみようによっては悲劇的だが、それはまたべつの話である。「隻手の音聲」という白隠禅師の公案とは違えども、東洋でいう無に向かう心と通じるところもなくはないのかもしれない。

 静寂を打ち破るように強音で打ち鳴らされる冒頭の三和音から、めくるめく変奏を旋回する遍路のように辿り、その魂の行き着く先は、低音のオクターヴに沈む主音の響きである。

 主の音はかくも荘厳で、その後には澄みわたる静寂しかない。その沈黙は、泣き叫んでこの世に生まれてきたこどもの、慟哭とも沈痛とも言えない。最後の嗚咽を偲ぶような無音の響きもある。あるいは、旅に疲れ果てたさきの、堂々たる帰着とも回帰ともとれる。静けさは、轟音でもある。

 さて、私がいま思い出しているのは、アレクサンドル・カントロフが最新盤となるブラームス・アルバムの結びに収めた「シャコンヌ」の演奏だ。24歳のこの俊英ピアニストは、アルバム・リリースからほどなく、2021年11月に来日し、日本では初めてとなるリサイタルを3日連続で行った。

 カントロフのことは秋の来日に先立って、このウェブサイトにも記事を書いた。せっかくなので、まずはその後日譚をさっと記しておくと、左手の「シャコンヌ」をリサイタルのアンコールで聴くという私の儚い望みは、結局は夢想におわった。それから、カントロフは左利きだった。取材が叶ったので、本人にたずねてみた。12月になってコンサートホールでたまたま会った藤田真央さんも「カントロフは左利きですよ」と教えてくれた。「ちなみに、わたしも、左利き」と、左の手首をくるくるっとまわして。

 そして、カントロフの「シャコンヌ」の録音が水際立って美しいことは、なんど聴いても変わることがない。自然と涙が溢れてくることも。不思議なのは、その都度、どこか新しく響いてくることだ。というよりも、聴くたびに、私の心が新しくなるような気がする。

 だが、実のところ、アレクサンドル・カントロフのこのレコーディングで、「シャコンヌ」は泣き叫ぶようにはじまりもしなければ、終局として荘厳を打ち建てるわけでも、疲れ果てた帰着を果たすでもない。ピアノで弾くからこそ得られる、水平方向への広がりを流麗に活かしきった演奏であり、ヴァイオリンならば描きやすい舞曲の旋回がある種の疲弊を囲うのとも趣は異なってくる。

 その音楽は終わりにきて、まっすぐな祈りのように静かな収束をみせる、と感じられる。だからこそ、オクターヴで低音から打ち鳴らされる3つの主音の重く慎ましい沈潜のなかに、私たちは多くの響きを聞きとることができる。

 このとき、アレクサンドル・カントロフはシャコンヌ、つまり音楽そのものである。作品や響きとまっすぐ一体になっている。だから、これを聴くとき、私たちも音楽そのものであると思える。生きている、とまさに感じる。それは心のうちで深く、永遠に刻まれる祈りとなる。真剣に生きること、音楽の祈りを歌いぬくことは、かくも自然で、かくも美しい。

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。