小菅優|新たなプロジェクトに寄せて
message from Yu KOSUGE

 今回のリサイタルで私は、これまでの2つの大きなプロジェクト、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏会と「Four Elements」プロジェクトを顧みつつ、今自分が一番向き合いたい作品を取り上げます。

 2010年から2015年まで行ったベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏会は、私にとってそれまでにない大きなプロジェクトで、この企画を実現させるため周囲の関係者を説得したり、ソナタのコンビネーションを何度も考え直したり、そして何よりも各時代の貴重なソナタと一つひとつ丁寧に向き合う作業は20代から30代に向かっていた私にとってかけがえのない経験でした。ベートーヴェンの細かい指示から映しだされる絶妙な響きには彼の心情、皮肉、哲学を含むあらゆるメッセージが組み込まれていることに感動する毎日でした。お客様が足を運び、毎回私とともにこの貴重な作品と向き合ってくださったことに感謝しかありません。

All Photos:(c)Marco Borggreve

 ベートーヴェンのソナタは今後も絶え間なく研究する作品ですが、まったく異なる世界をお客様に聴いていただきたく2017年から4年間行ったプロジェクトが「Four Elements」です。もともとベートーヴェンを勉強しているとき、ギリシャの哲学について調べていて知ったエンペドクレスの四元素理論をもとに、あらゆる時代の作曲家がインスピレーションを受けた4つの元素――水、火、風と大地にまつわる作品を取り上げました。絵画的な描写に限らず、元素がメタファーとしてメッセージや宗教的観念まで表すストーリーに魅せられ、ここまでプログラミングについて試行錯誤したことはないほどにこのプロジェクトは新しい試みでした。ドビュッシー、ヤナーチェク、スクリャービンやストラヴィンスキーなど、今までほとんど取り上げたことのない作曲家に手を伸ばし、各作曲家の個性や作曲家同士の関連性、歴史的背景を調べるのがここまで楽しい作業だと感じたのも実りある経験でした。

 このような歩みを経て、沢山のサポートのお蔭で今の自分があります。両方のプロジェクトの要素を含め、今の私の演奏をお客様に聴いていただきたいと思い、このリサイタルの曲目を考えました。

 前半はフランス・パリを中心に活躍したフランクとドビュッシー、そして2人の影響を受けた武満徹、後半はベートーヴェンとシューベルトの転機にあたる、ウィーンで書かれた2つの傑作を演奏します。

 フランクは主な作品をすべて晩年に残しましたが、この「プレリュード、コラールとフーガ」は、優れたオルガン奏者だったフランクならではの、教会のオルガンの響きと深い感情が結合した大作です。フランクの作品ではヴァイオリン・ソナタやピアノ五重奏曲を演奏させていただいたことがありますが、ソロのピアノ作品は今回初めて取り上げます。バッハの影響が感じられる中、この曲は独自のハーモニーのセンスや常に誠実な姿勢によって天国的な色彩感に溢れ、それはあらゆる感情を表しつつも常に遠くから見守るようなところもあり、その暖かさが彼の独特な世界なのだと感じています。

 同じく晩年の集大成ともいえるドビュッシーの素晴らしい前奏曲集から、「Four Elements」で各元素に分けて取り上げた水、火や風の描写に五感が刺激される作品を今回まとめて演奏します。一緒に演奏することで、ドビュッシーならではの響きをより深く感じていただけましたら嬉しいです。

 そして武満の独自の神秘的な色彩感や音と音の間に魅了され、10代のころから演奏してきた「雨の樹 素描」を、彼の敬愛する作曲家たちの作品とともにお届けしたいと思います。

 没後25年の武満徹の音楽とは、今年向き合う機会がたくさんありました。著作を読んでいると現代の私も彼からアドバイスを得ているような気になり、作品からは星や宇宙、庭園を想像させられるもの、ジャズの響き、邦楽の響き、色々な音色があらゆる感覚とともに心に訴えてきます。「雨の樹 素描」は大江健三郎の短編小説『頭のいい「雨の木」』からインスピレーションを受けていますが、小説に登場する雨滴を葉の裏にびっしりと溜め込み、雨のように水滴を降らせるインドボダイジュの描写から、人間や生命そのものの存在を感じます。

 後半はソナタ形式をもとに自由な構想で描いた、27歳のベートーヴェンのソナタ「悲愴」、シンフォニーの研究を積み重ねていた時期の25歳のシューベルトの「さすらい人幻想曲」を。両作品からは人間の孤独感や内なる叫びがドラマチックに展開し、それぞれの異なった葛藤が現れる傑作です。

 ベートーヴェンの作品を見ていくと沢山の転機を発見しますが、この悲愴ソナタは最初の転機に当たるのではないかと思います。何故なら、今までのソナタの形式を覆し、重々しく悲劇を提示するような冒頭の序奏、そして感情が迸るようなアレグロ、それが交互に現れ、そのドラマチックな構成は完璧としか言えません。実に内面的な第2楽章を経て、第3楽章ではモーツァルトのような純粋さも垣間見せながら、悲劇の結果のように、1楽章や2楽章も振り返りつつ締めくくられます。転調のたびに繊細な人情の変化が感じられ、その人間性に心打たれる作品だと思います。

 シューベルトの「さすらい人幻想曲」は、交響曲のような構成で成る一方、歌曲「さすらい人」D489 (D493)のリズムのモチーフが最初から最後まで用いられ、4つの楽章がソナタ形式のように提示部、展開部、再現部、コーダにも捉えることができ、一貫性を保っています。一つのドラマがここまで力強く、想像力豊かに、そして斬新に描かれていることに感動せざるを得ません。アダージョで再現される歌曲の中間部のモチーフでは、苦境を耐え忍ぶような寒さと孤独感に襲われ、長調になると、シューベルトらしい夢想的な平和の世界が現れ、現実では味わえない幸福に浸ります。シューベルトの世界からは、自由を求める気持ちが常に伝わってきて、現代にも通じる感情がどこかにあるのでは…と考えさせられます。

 皆様にお届けするこの傑作の数々は私にとって大きな課題でもありますが、何よりも素晴らしい音楽に今浸れることをこのうえなく幸せに感じています。

 そして来年からの新プロジェクトでは、「ソナタ」というテーマの中で、古典派に限らずバロックから現代まで羽を伸ばし、その多彩で画期的な音楽の真髄を追っていきます。このリサイタルをお聴きいただくことで、次はこれに専念したい!と思う私の気持ちをわかっていただけるのではないかと思います。

 では、会場でお客様にお会いするのを心より楽しみにしています。

小菅優

小菅優 ピアノ・リサイタル
2022.1/21(金)19:00 東京オペラシティコンサートホール
〈プログラム〉

フランク:プレリュード、コラールとフーガ
武満徹:雨の樹 素描 I
ドビュッシー:
前奏曲集第1巻から「野を渡る風」「西風の見たもの」「沈める寺」
前奏曲集第2巻から「霧」「花火」
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 op.13「悲愴」
シューベルト:幻想曲 ハ長調 D760「さすらい人」

問:カジモト・イープラス050-3185-6728
https://www.kajimotomusic.com

その他の公演
2022.1/8 (土) 青山音楽記念館 バロックザール(京都)
https://barocksaal.com/schedule/3866/
1/14(金)グランシップ 中ホール・大地(静岡)
https://www.granship.or.jp/visitors/event/detail.php?id=2696
1/16(日)三井住友海上しらかわホール(名古屋)
https://dbf.jp/runde/index.cfm?page=concert&c=220116
1/19(水)神奈川県立音楽堂
https://kanagawa-geikyo.com/concert/concert-3599/