冷たい焔の揺らめき ―― アレクサンドル・カントロフへの期待

文:青澤隆明

 アレクサンドル・カントロフのピアノが鳴り出した途端、俄かに背筋が寒くなった。
 どうしてそうなのかはわからない。だが、こういうときはいつも決まってそうなのだ。
 最初の音で、その人の才気は伝わる、存在が知れる。瞬く間に、期待は沸騰する。

 しかし、そういうことは、なかなか起こらない。どれくらい滅多に起こらないかということは、長く音楽を聴いていれば、それだけ身に沁みてくるものである。それでも、とくに若い人のことはつねに畏怖していたい、と気を引き締めてはいる。だが、演奏を聴いてそれを直観するのは、実のところかなり稀だ。才能とは怖ろしいもので、凡庸な私のような者にも、その在り処はたちどころに知れてしまう種の焔である。

 熱く揺らめいているのに、みているとぞくぞくと凍りつくような感覚を覚えさせる。それは、怜悧とも冷徹ともみられる鋭気で、生き生きと強かに打ち据えられた焔だ。しかし、その焔自体は、自らを持て余すように揺れ動いて、音楽の心をしっかりとつかんでいる。

Alexandre Kantorow (c)Jean Baptiste Millot

 アレクサンドル・カントロフ、という切れ味のよい名前を世界がはっきりと記憶したのは、フランス人ピアニストとして初めての優勝に輝いた2019年のチャイコフスキー国際コンクールであったに違いない。最終選考で、カントロフが選んだのはチャイコフスキーとブラームスのともに第2番の協奏曲だった。ありていに言って大胆不敵なうえに、いずれの難大曲もしっかり見事に構築してみせたのだ。高名なヴァイオリニストのジャン=ジャック・カントロフを父にもつ、ということはアルメニア系ロシア人の血を引いている。オーギュスタン・デュメイの指揮で関西フィルに招かれ、リストの協奏曲第1番を共演したのが2015年9月、18歳のとき。24歳のいま、この11月に、いよいよ日本で初めてのリサイタルが開催される。

 アレクサンドル・カントロフは、特別な音をもっている。それは、音色というように切り離して感じられるものではもちろんなく、音楽全体の表情と密接に繋がっている。音楽全体とはなにかといえば、作品の内実をどれだけ深く精確にみつめ、それを自らの心身を通じて息づかせることができるか、ということだろう。そうして初めて歌は満ちてくる。

 しかも、最初の小節を弾きはじめるときには、彼はすでに自然に音楽のなかに入っている。いきなり静寂を打ち破ったりはせず、音楽のなかにふっと降り立つように、その流れをつかんでいる。そして、新鮮に表現を刷新する意気と才覚をもちながらも、カントロフの演奏には古いにおいがちゃんとする。CGやフォトショップのタッチではなくて、油絵のにおいだ。そこが聴いていてうれしいし、とくにロマン派の世界にはぴったりと合っている。

 と、それなりの確信をもって書いてはいるのだが、正直に打ち明けるならば、私はまだ彼のコンサート、生のピアノの音を聞いたことがない。こういう場合、お薦めの文を書くことなど慎みたいのだけれど、カントロフともなれば話はべつだ。だからこそ、聴きたいと切実に思う気持ちが勝る。レコーディングを聴いていても、弱音の神秘的な美しさには息を呑むし、巨体が唸るずっしりした重量感ではないが、フォルテにも透明ながら芯をもった強度がある。細部に行き届いた色彩的な想像力からして、つまらない音であるはずはない。

 以上のような感銘の多くは、とくにブラームス、バルトーク、リストの三者三様のラプソディーにブラームスのソナタ初作を組んだソロCDを聴いてまず感じたことに依っている。カントロフは一種異様ともみえる痛切な没入を緊密に利かせながら、作品の劇的な情感をロマンティックに表出させていた。ブラームスが19歳で書き上げた嬰ヘ短調ソナタop.2では、幻想的な沈潜をみせながら、繊細な青年の詩性を濃やかに描くなかに、即興的な閃きを宿していた。個々の音に息苦しいほどの緊張感があり、バルトークやリストに臨んでも、ヴィルトゥオジティと緊迫した粘りをもって、カントロフの若く不穏な才気は貫かれる。

(c)Sasha Gusov

 さて、今回のプログラムは、ブラームスの「4つのバラード」op.10とピアノ・ソナタ第3番ヘ短調op.5の間に、リストの「ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲」を組み合わせたもの。ロマン派が燃え盛る時代の、文学的想像力を含む創造の沸騰が蘇ってくるに違いない。

 ブラームスの若い作品に特別魅せられているのは、まさしく青年カントロフがそこにこそ豊穣な情感と果敢な構築の大胆な結合をみるからだろう。激しい情動が織り込まれ、初期作にしか宿らない狂おしい意気をもつ作品だ。恰幅よく髭も生やしたブラームスではなく、魅力的な美青年としてシューマン夫妻の心をつかんだ人間の創作である。若いカントロフが知情意のバランスをとりつつ、冒険的でありながら綿密に構築的な音楽を打ち建てるのに情熱を傾けているのは、実に興味深いことだ。現在の彼でしか表せない境もあるだろう。

 と、ここまで書いていたところに、カントロフの新しいアルバムがちょうど届いた。ブラームスの続篇で、まもなくのリサイタルでも弾かれるヘ短調ソナタop.5とバラードop.10が収められている。さっそく聴いてみた。アルバムの結びには、40代半ばのブラームスが左手のために編曲したバッハのシャコンヌが置かれているのだが、これが驚くほどに美しい演奏だった。

 これほど自然で、奥行きがあり、流麗でエレガントな、しかもピアノ曲としての比類ない美しさをもつシャコンヌを、私は聴いたことがない。もしかして、カントロフは左利きなのではないか。これまで聴いたどの曲でも感じられたことだが、この作品での繊細な豊かさを聴くと、彼の器用な左手がどれだけ多様な表情をみせ、表現を豊麗なものにしているかが改めてくっきりと浮かび上がってくる。

 聴き終えた途端、私は思った。アレカンのシャコンヌを聴くためだけに、飛行機に乗ってもいい。この秋のアンコールに弾いてくれないだろうか。いや、“アレカン”などと軽々しく呼んではいけなかった。アレクサンドル・カントロフ――、まだ24歳のこの青年には、偉大な芸術家の気配がある。

杜のホールはしもと開館20周年記念 シリーズ杜の響きvol.45 
アレクサンドル・カントロフ ピアノ・リサイタル

2021.11/23(火・祝)15:00 杜のホールはしもと・ホール

♪ ブラームス:4つのバラード Op.10
♪ リスト:《巡礼の年 第2年イタリア》より 第7曲〈ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲〉
♪ ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調 Op.5
問:チケットMove042-742-9999

〈エスポワール スペシャル 17〉
アレクサンドル・カントロフ

2021.11/24(水)、11/25(木)19:00 トッパンホール
♪ ブラームス:4つのバラード Op.10
♪ リスト:《巡礼の年 第2年イタリア》より 第7曲〈ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲〉
♪ ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調 Op.5
問:トッパンホールチケットセンター03-5840-2222


SACD『ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番、左手のための「シャコンヌ」、バラード集』

ブラームス:
バラード集 Op.10【Ⅰ.ニ短調/Ⅱ.ニ長調/Ⅲ.ロ短調/Ⅳ.ロ長調】(1854)
ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調 Op.5(1853)
左手のための「シャコンヌ」(1879)

アレクサンドル・カントロフ(ピアノ)

BIS/キング・インターナショナル
KKC-6436 ¥3,300(税込)
2021年11月下旬入荷予定