2021年のショパンコンクール優勝のブルース・リウ、同第6位入賞のJJ ジュン・リ・ブイ、22年のジュネーヴを制したケヴィン・チェン…。近年、国際コンクールでの中国系カナダ人ピアニストの躍進が注目を集めている。16歳で出場した2015年のショパンで第6位に入賞したイーケ・トニー・ヤンもその一人。入賞以後、国際的に活躍するトニー・ヤンが12月、待望の来日を果たす。公演が翌月に迫った11月某日、来日リサイタルにかける想いを聞いた。
取材・文:高坂はる香
想定外だったショパンコンクールのファイナル進出
——16歳でショパン国際ピアノコンクールに入賞されてから9年が経ちました。当時、「最後まで残ると思わず2次予選後に帰国便をとっていた」とおっしゃっていて驚いた記憶があります。
そうなんです、僕がファイナルまで進むと思っている人は周りに一人もいませんでしたから(笑)。
セミファイナルを目標に2次までのレパートリーは丁寧に準備していたのですが、その先に進むことが決まったので大変でした。特にファイナルの協奏曲の3楽章は十分準備ができていなかったので、焦りましたね!
——審査員で師のダン・タイ・ソンさんが「トニーのせいで白髪が増えた」とおっしゃっていましたね(笑)。
先生は僕の状況を知っているから気が気でなかったようで、ファイナルは「私の方が君の10倍緊張していたよ!」と言っていました(笑)。
あの3週間は僕の人生の道筋を大きく変えた、最も印象に残る経験です。同門のケイト・リウ、エリック・ルーと再会し、チョ・ソンジン、シャルル・リシャール=アムラン、ドミトリー・シシキンと知り合って一緒に過ごした時間は忘れられません。
——前回2021年のショパンコンクール中には、みなさんで小林愛実さんの演奏を聴いて応援していましたね!
そうなんです、実はあのワルシャワ行きは本当に急に決まったんですよ。コンクール1次の最中、ベルリンでソンジンとケイトに会って、その写真をソンジンがSNSに載せたら、その数時間後にコンクール事務局から「近くにいるなら来ませんか?」とメッセージがあったのです。
それで都合の合うメンバーはワルシャワに集まり、配信の幕間のショパン・トークに出たり、愛実の演奏を聴いたりして過ごしました。今はその愛実もお母さん、恭平はお父さんになったのですから、時とともに人は変化するものですね!
深みを増すショパンへの眼差し
——今回のリサイタルではショパンを中心に興味深いプログラムを披露されます。
ショパンと彼に近い二人の作曲家を合わせたプログラムです。
ショパンの作品にはJ.S.バッハとモーツァルトの影響が見られますが、今回は前半にモーツァルト……ベルカントや抒情性を感じる作品を選びました。
「〈お手をどうぞ〉の主題による変奏曲」は、《ドン・ジョヴァンニ》にインスパイアされた作品です。ショパンの初期作品は構造的にそこまで複雑でなく、変奏曲風のものが多くあります。そこでモーツァルト「ドゥゼードの《ジュリ》の〈リゾンは眠った〉による9つの変奏曲」を合わせます。あまり演奏される機会がありませんが、オペラ的で楽しい曲です。
間のモーツァルトの4番のソナタは内省的で歌を感じるので、次の《ドン・ジョヴァンニ》にうまく繋がると思います。
——オペラはお好きですか?
はい! 舞台演出など、ピアノではできない視覚的要素にも意味があって興味深いですよね。でも、逆にピアノで表現するときは、想像力で残りの部分を補うので、むしろ実際、視覚的に表現できる以上の生き生きした情景を示せるかもしれません。
ちなみに子どもの頃初めて観たのは《魔笛》。モーツァルトにとって、声の表現、ユーモアはとても重要でした。人間は普段いろいろな話し方をします。声の抑揚で表現できることは本当に幅広いですよね。
——後半はショパンの「幻想ポロネーズ」とソナタ3番にスクリャービンを合わせます。
スクリャービンは「ロシアのショパン」と言われたくらいで、特に初期作品にはショパンの影響が見られます。一方のショパンは後期の作品になるほど構造的に洗練されていくので、スクリャービンと合わせると良いと思いました。
ショパンも若い頃は、憧れるものから学び、影響されて作品を書いていましたが、人生のある段階からはすべてが自分のものになっていきます。いわば以前の彼とは異なる音楽性を発揮するようになり、特に“ファンタジー”に夢中になっていました。2つの作品を通じて、ショパンの深く重い部分に踏み込んでみたいと思います。
——この9年でショパンへの理解は変わりましたか?
はっきりと変わりました。コンクールの頃は直感に基づいて演奏していて、正直なぜそう表現したいかに明確な考えがありませんでした。あれからショパンを避ける時期もありましたが、さまざまなスタイルや考え方に触れ、改めてショパンという人物の複雑さを知り、彼への感情も深くなりました。
ショパンの音楽は美しく、その多くは悲劇を受け入れるか否かの感情に由来しているように思います。だからこそ時に激しさが感じられるのでしょう。
——どうやってショパンに近づいたのですか?
経験と内省を通じてですね。また、ショパンに影響を受けた人、影響を与えた人の作品から学ぶこともありました。同じ楽譜を見ていても新たな和音や表現に気づくこともあります。小さな発見が最終的に大きな変化につながりました。音楽を魂になじませるには時間もかかりますし、鍛錬が必要です。
幅広い活動の先に
——9年の間には、ハーバード大学とニューイングランド音楽院の共同学位プログラムで勉強されていた時期があるそうですね。
はい、音楽の道は簡単ではないので、視野を広げるために一般大学でも勉強しようと思っていたところ、幸運にもすばらしい学校に入学でき、3年からは経済学を専攻しました。世界の事象に目を向け、分析し理解するうえで、視野を広げてくれたと思います。
——カナダ育ちの中国系ピアニストの活躍が目覚ましいです。なにか教育などに特徴があるのでしょうか?
確かに、ブルース・リウはじめ中国系カナダ人がたくさん活躍しています。
僕自身は4歳でカナダに移り、9歳のとき両親がアートスクールに入れてくれたことが一つの転機でした。母はピアノ教師でしたが、この学校を選んだのは芸術を学ばせたいと考えていたからではなく、そこがトロント地域の中で非常に優れた学校だったからです。
親たちは良い教育を受けさせようと、慎重に学校を選びます。おそらく移民の家庭は勤勉な傾向があることも理由でしょう。加えてカナダの大きな都市では、あらゆる人が幅広い芸術を体験する環境が整っているので、それらの要素が合わさった結果ではないでしょうか。
——いろいろな国で演奏する様子をSNSで紹介されていますね。
そうですね! 僕は旅行が好きで、クラシックがあまり聴かれていない場所に音楽を届けることに興味があるんです。最近はケニアやエチオピアにも行きました。クラシック音楽は普遍的な言語だと実体験として確かめる、貴重な機会です。
それと国ではありませんが、近年、刑務所での演奏活動に参加しています。罪を償うためにそこにいる人々に向けて演奏をする中、過去に間違いを犯した人の魂に音楽の力がどう作用し、浸透するのか見るのは興味深いです。
先日、暗く内省的な作品ばかり演奏したことがあったのですが、その時に感じたのは、一部の作曲家には非常に暗い場所…いわば心の中の監獄から書いたような作品があるということです。
——どんなピアニスト、音楽家を目指していますか?
それはこの1年、僕が毎日自問してきたことです。
でも、正直まだわかりません。今の僕にはいろいろな経験が刺激的で、それが原動力となってまた次の経験を求めています。将来的には、一般的でない会場でも演奏したり、よりクリエイティブな活動に取り組みたいという気持ちがあります。あとは、まだ未来の話ですが、あまりコンサートのない地域に優れた音楽家を連れて行く活動にも携わりたい。
いろいろなアイディアがありますが、まだ頭の中に巨大な雲が浮かんでいるような状態。経験を重ねる中ではっきりした形を見出していきたいです。
イーケ・トニー・ヤン ピアノリサイタル
2024.12/19(木)19:00 浜離宮朝日ホール
プログラム
モーツァルト:
ドゥゼードの《ジュリ》の〈リゾンは眠った〉による9つの変奏曲 ハ長調 K.264
ピアノ・ソナタ第4番 変ホ長調 K.282
ショパン:《ドン・ジョヴァンニ》の〈お手をどうぞ〉による変奏曲 変ロ長調 op.2
スクリャービン:幻想曲 ロ短調 op.28
ショパン:
ポロネーズ第7番「幻想」 変イ長調 op.61
ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 op.58
朝日ホール・チケットセンター03-3267-9990
https://www.asahi-hall.jp/hamarikyu/