Seiji Ozawa 1935-2024
日本最大の音楽家のひとり、指揮者の小澤征爾が2月6日、亡くなった。死因は心不全、享年88。葬儀は近親者のみで執り行われた模様。
1935年、中国の瀋陽市(旧満州国奉天)生まれ。1941年帰国。小学生で初めてピアノに触れる。成城学園中学校ではラグビー部に入部するも指をケガしてピアノが弾けなくなってしまう。その後、桐朋学園に入学、偉大な教育者 齋藤秀雄のもとで指揮を学ぶ。
1959年、富士重工業(現在のSUBARU)がスクーターを用意、貨物船で単身渡欧。フランス滞在中に受けたブザンソン国際指揮者コンクールで第1位を獲得。ヨーロッパのオーケストラを指揮する機会が増え、ミュンシュ、カラヤン、バーンスタインという大指揮者たちに師事する。特に、カラヤン、バーンスタインとの親交は生涯にわたった。
やがて1970年にタングルウッド音楽祭の音楽監督に就任、同年サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就き1976年まで務める。
1972年、同じく齋藤秀雄に師事した山本直純や、日本フィルを退団したメンバーとともに自主運営のオーケストラ、新日本フィルハーモニー交響楽団を設立する。1999年には桂冠名誉指揮者に就く。
1973年にはボストン交響楽団の第13代音楽監督に就任、その後2002年まで29年にわたりこのポストを務めることになる。同楽団の歴史においても最長の任期で、退団後は桂冠音楽監督に。ボストン市との関係も親密で、小澤の85歳の誕生日である2020年9月1日を「Seiji Ozawa Day (小澤征爾の日)」に認定。小澤自身もボストンを第二の故郷と呼び、しばしば観戦に行った野球チーム ボストン・レッドソックスの帽子を被って現れることも多かった。
ボストンでの活躍を機に、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルをはじめとするヨーロッパの名門オーケストラへの出演も増えていく。
1984年、恩師である齋藤秀雄を偲び同門の秋山和慶ら仲間に声を掛け、没後10年のメモリアル・コンサートを東京と大阪で開催する。それがやがてサイトウ・キネン・オーケストラへと発展し、1987年、89年、90年、91年と海外公演を行う。1992年には、国際音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」を創設。2015年には「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」と名称変更し、日本を代表する音楽祭として人気を集めている。
1990年、水戸芸術館の開館と同時に誕生した水戸室内管弦楽団の総監督、指揮者に。2013年、前年死去した音楽評論家 吉田秀和の後任として水戸芸術館の2代目館長に就任。
1994年には、タングルウッドに客席数1,200のSeiji Ozawa Hall(小澤征爾ホール)が設立される。
1996年には、サイトウ・キネンの室内楽勉強会をもとにした室内楽アカデミー奥志賀を開始。小澤国際室内楽アカデミー奥志賀として現在も開催されている。また2000年に若い音楽家を育成するための小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトを、2005年にはヨーロッパの学生を対象にしたSeiji Ozawa International Academy Switzerlandをスイスに設立、2009年に小澤征爾音楽塾オーケストラ・プロジェクトを開始するなど、教育活動も積極的に展開してきた。
2002年、日本人として初めてウィーン・フィル ニューイヤーコンサートを指揮。同年秋には東洋人として初めてウィーン国立歌劇場音楽監督に就任。2007年にはウィーン国立歌劇場名誉会員に、2010年には日本人として初めてウィーン・フィルから「名誉団員」の称号を与えられる。
生涯にわたり、ベルリン・フィル(2016年に名誉団員の称号を贈呈される)、ウィーン・フィルをはじめとした世界の多くの一流オーケストラや、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、パリ・オペラ座、メトロポリタン歌劇場など名門オペラハウスに出演してきた。
主な受賞歴は、米国ハーバード大学名誉博士号、オーストリア勲一等 十字勲章、サントリー音楽賞、フランス・ソルボンヌ大学名誉博士号、フランス・レジオン・ドヌール勲章オフィシエ、日本国文化勲章、高松宮殿下記念世界文化賞などがある。2016年には第58回グラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞。2022年3月、日本芸術院会員に選出。
人気、実力、知名度、いずれにおいても日本が世界に誇る唯一無二の音楽家であり、国内における西洋音楽発展の最大の功労者のひとり。近年は、自身の名を冠したセイジ・オザワ 松本フェスティバルのカーテンコールに車椅子でしばしば登場。最後に聴衆の前に姿を見せたのも昨年の同音楽祭のオーケストラ公演だった。当日指揮をしていた盟友ジョン・ウィリアムズに促されステージに現れると、客席だけでなく舞台上の奏者からも盛大な拍手が送られた。会場にいたすべての人がこの瞬間を待っていたかのような歓声は、その存在の大きさを一段と際立たせているようだった。