勅使川原三郎版『羅生門』

芥川の文体をダンスで表す

 東京・荻窪のカラス・アパラタスでほとんど恐るべきスピードで小規模な新作をつぎつぎと発表する勅使川原三郎は、すこし時間をかけながら、両国のシアターXで、また池袋の東京芸術劇場で、というふうに、より規模の大きな作品を提示しつづけてきた。この8月、約2年半ぶりの池袋と、愛知で披露される新作は『羅生門』。同名の黒澤明による映画ではなく、こちらもまたよく知られた、芥川龍之介の作品にもとづいている。原作は、いまはどうかわからないが、かつては教科書にも載っていた6000字ほどの掌篇で、今昔物語に取材する歴史物。

 文学から映画、音楽と、多くの作品にアプローチするこのダンサー/コレオグラファーが、なぜ、『羅生門』なのか。あらためて掌篇をひらいてみる。

 「この二三年、京都には、地震とか辻風(つじかぜ)とか火事とか饑饉とか云う災(わざわい)がつづいて起った。そこで洛中(らくちゅう)のさびれ方は一通りではない」

 「当時京都の町は一通りならず衰微(すいび)していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから『下人が雨やみを待っていた』と云うよりも『雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた』と云う方が、適当である」

 「饑死(うえじに)をするか盗人(ぬすびと)になるか」

 よく知っている。知っているとおもっていた。でも、書きこまれているのはこうしたことば、ことばたち。引いた箇所は、平安時代の、1000年も前を描いたもののはず。なのに、妙に身近に感じてしまうのは、おもいすごしか。

 勅使川原は作品にそのときのことを、安易なアクチュアリティを織りこんだりはしない。そうしたところからむしろ距離をとっている、とみることも可能だ。そのうえで、芥川龍之介が大正4年に著した小説においては、平安時代と21世紀を20年以上過ぎた時代とがシンクロしているかのようだ。

 勅使川原はここで、一種の分身といえるようなダンサー、佐東利穂子とともに、ハンブルク・バレエ団のプリンシパルたるアレクサンドル・リアブコを招く。宮田まゆみは、池袋では、笙と鳴りものを即興的にからめてゆく、ときく(愛知は録音を使用)。

photo by Mariko Miura

 小説にでてくるのは下人と老婆の2人だが、さて、この舞台で名があがっているのは4名。誰が、何を、どうするのか。何が、どう、なっているのか。しかも、身体とうごき、光とストーリーとともにあるのは、うつしだされる時代を喚起しつつ、息によって発音される笙の持続するひびき、打たれては消えてゆく鳴りもののひびき——。

 もとより、ストーリーをたどるかたちでステージが進むわけではあるまい。基本として原作が据えられはしようけれども、その細部の機微、変化、変容こそがダンスとして、舞台としてたちあがるだろう。だとするなら、原作を読みこんでおくに如くはない。この舞台であなた・あなたがたが、わたしが、感じとるのは、はたして、何か。
文:小沼純一
(ぶらあぼ2021年8月号より)

2021.8/6(金)19:30、8/7(土)16:00、8/8(日・祝)16:00 東京芸術劇場プレイハウス
問:KARAS 03-5858-8189 
https://www.st-karas.com

2021.8/11(水)19:00 愛知県芸術劇場
問:愛知県芸術劇場052-971-5609
https://www-stage.aac.pref.aichi.jp