追悼 ニコライ・カプースチン

In Memoriam
Nikolai Kapustin 1937-2020

C)Pavel Korbut

 2020年7月2日、ジャズとクラシックを高度に結びつけたピアノ曲で知られるニコライ・カプースチンが82歳でこの世を去った。現時点で最後の作品とされるのはop.161とナンバリングされた「Moon Rainbow」。このピアノ曲が書かれた2016年頃から闘病生活に入っていたようだ。

 1937年、ウクライナ生まれ。7歳からピアノを習いはじめ、13歳で習作のピアノ・ソナタを作曲している。14歳でモスクワに移住。モスクワ音楽院でジロティ(ラフマニノフの従兄)門下のゴリデンヴェイゼルにピアノを師事している。なお門下は違うのだが、ウラディーミル・アシュケナージが同い年で、同時期に音楽院に在籍していた。55年から始まったアメリカの国営ラジオ放送「ヴォイス・オブ・アメリカ」のジャズ・アワーを聴いたことが人生の転機となる。学生時代に書かれた「ピアノ・コンチェルティーノ」op.1は既にジャズを取り入れた作品となっている。

 61年に音楽院を卒業した後は、ビッグバンドのオレグ・ルンドストレーム楽団(56年結成)、ラジオ局の軽音楽オーケストラ、映画音楽のオーケストラでのピアニストとしての活動をしながら作曲を続けていたのだが、84年にオーケストラを辞めて作曲に専念。この年には後に人気曲となる「8つの演奏会用練習曲」op.40、「変奏曲」op.41が書かれている。こうして80年代後半以降に書かれた楽曲を、ニコライ・ペトロフ、スティーヴン・オズボーン、マルク=アンドレ・アムランといった超絶技巧を誇るピアニストたちが90年代から2000年代初頭にかけて録音を果たしたことで、徐々にではあるが世界的に知られるようになっていく。

 日本では、ピアニストの川上昌裕が普及に大きな役割を果たしたことで知られるが、もともとは徳間ジャパン系の流れを汲む国内レーベルのトライエムから自作自演のCDが発売されたことがきっかけだった。2003年4月にモスクワで行われた自作自演のレコーディングに同行した川上はカプースチンと知遇を得て、これ以後、日本で楽譜の出版や作品の演奏に努めた。川上の弟子の一人である辻井伸行もカプースチンをレパートリーに加え、テレビ番組で演奏したりすることで、さらに広く知られるようになっていった。

 前述したように作品番号が付いたものが161曲遺されており、年代別に見ていくと、ピアノ独奏曲は生涯にわたって書き続けられている。20曲のピアノ・ソナタも重要だが、1997年に書かれた「24の前奏曲とフーガ」op.82も傑作だ。フーガの名手だったことは強調されておくべきだろう。それ以外の編成については80年代まではビッグバンドや弦楽合奏を用いたものが多く、クラシカルな楽器の組み合わせによる室内楽は1990年代以降に増えていく。協奏曲も多く、ピアノをソリストにした協奏曲は全部で10曲(コンチェルティーノや2台ピアノ等も含む)、他にもサクソフォン、コントラバス、チェロ、ヴァイオリンのための協奏曲も遺されている。

 カプースチンが亡くなった4日後、妻アッラも急逝したという。寡黙な夫と対照的な気さくな人柄で、カプースチンの創作や交流関係を支えた女性だった。
文:小室敬幸