すべては美少年から始まった|萌えオペラ 第3回 モーツァルト《フィガロの結婚》

text:室田尚子
illustration:桃雪琴梨

オペラの世界には、女性が男性を演じる「ズボン役」というものがあります。前回ご紹介した《ホフマン物語》のニクラウスもそのひとつですが、年若い男性や少年であることの多いズボン役は、声種としてはたいていメゾソプラノによって歌われています(役によってはソプラノやアルトのものもあります)。ズボン役の魅力を最初に世に知らしめたといえるのが、モーツァルトのオペラ《フィガロの結婚》に登場するケルビーノです。

《フィガロの結婚》の舞台は18世紀半ばのスペイン・セビリア。ケルビーノは貴族のアルマヴィーヴァ伯爵の小姓で、あっちこっち女性に目移りしている思春期の少年という設定。リアルな十代の男の子はニキビ面で声変わりの途中だったりしてそれほど「美しい」ものではありませんが、ここはオペラ、フィクションの世界。当然ケルビーノは美少年でなければなりません。だって考えてもみてください。ケルビーノは年上の伯爵夫人に憧れを抱いていて、伯爵夫人の落としたリボンを傷口に巻いたり、伯爵の浮気をこらしめるためにフィガロの計画で女装させられたりするんですよ。そんなマネをして似合うのは、ただの少年ではなく美少年ならでは。

え、それはおまえの妄想だろうって?ノン、ノン!オペラの中で、伯爵夫人の小間使いでフィガロの許嫁であるスザンナは、ケルビーノに女装させながらこんなことを言います。

「このすました視線、仕草も、その姿も、女性たちが夢中になるのもよくわかりますわ!」「私でも嫉妬してしまいますわ!」「この子の腕、私より白いわ…まるで女の子みたい!」

伯爵に言い寄られるなど非常に女子力の高いスザンナにこう言わしめるケルビーノが、汗臭い、脂っぽいリアル十代男子であっていいわけがない。と、モーツァルトも考えたのでしょう。だからケルビーノはズボン役なのです。宝塚ばりに男装した美しきメゾソプラノが演じてこその美少年。そして、その「女が演じる」ケルビーノが劇中で「女装する」という二重の倒錯に、観ているこちらの目は釘付け、アタマはクラクラしてしまうというわけです。

ところで、オペラの中でケルビーノには2つのアリアが与えられていますが、そのどちらもが名アリアとして知られ、コンサートなどでもよく歌われています。特に第2幕で歌われる「恋とはどんなものかしら Voi che sapete」は、声楽を学ぶ人が先生から「そろそろオペラ・アリアを勉強してみましょうか」という時に最初にもらう曲。高校の音楽の教科書にも載っているので、あるいはこのアリアからオペラの魅力を知った、という人もいらっしゃるかもしれません。

「恋とはどんなものかご存知のご婦人方、僕のこの思いをわかってください。それは喜びであるかと思えば苦しみになり、燃え上がったかと思うと一瞬で凍りつく。ドキドキして、震えて、安らぎなんてとんでもない。でも朝も晩も楽しくて仕方がない。皆さんはご存知ですよね、この思いが何なのかを」

美しい女性を見るとドキドキする。ああ、これが恋?あの人と話ができただけで嬉しくて天にも昇りそう…だけど、体がカッカと燃えてきたぞ…ああ、今度は苦しくなってきた!もうどうにかしてくれ〜!!と、年上のお姉さまがたにうるむ瞳で訴える美少年(を演じる美女)。なにこれ、モーツァルト天才?!(天才です)

この美少年を演じるのがホンモノの男性ではない、というところがキモです。そもそも、美少年というのは単なる「男の若いバージョン」ではない。なぜなら、美少年は成長して必ず「美しい男」になるわけではないからです。いや、むしろ「美しい男」になる美少年の方が珍しいということは、洋の東西を問わず多くの「天才少年子役」が長ずるに従いその魅力を半減させ、やがては表舞台から消えていったことからも明らかです。美少年とは、今、この一瞬だけに存在する儚い表象なのであり、それゆえに一般的な「男」「女」というジェンダーを超越した存在として描かれ得る(竹宮恵子の漫画『風と木の詩』に登場する美少年ジルベールが「男でも女でもない、ジルベールという性別」だというのはけだし名言です)。ですから、ケルビーノという美少年が、女性が演じるズボン役であるのは必然であるといえます。

男でも女でもない、「ズボン役の美少年」という存在から放たれる独特の色気と魅力は、ケルビーノというキャラクターを通して私たちに最初の「萌え」を植えつけたわけですが、この系譜を引き継いだもうひとりの美少年について、次回は詳しくお話しすることにいたしましょう。

profile
室田尚子(Naoko Murota)

東京藝術大学大学院修士課程(音楽学)修了。東京医科歯科大学非常勤講師。NHK-FM『オペラ・ファンタスティカ』のレギュラー・パーソナリティ。オペラを中心に雑誌やWEB、書籍などで文筆活動を展開するほか、社会人講座やカルチャーセンターの講師なども務める。クラシック音楽の他にもロック、少女漫画など守備範囲は広い。著書に『オペラの館がお待ちかね』(イラスト:桃雪琴梨/清流出版)、『チャット恋愛学 ネットは人格を変える?』(PHP新書)、共著に『日本でロックが熱かったころ』(青弓社)など。
Facebook https://www.facebook.com/naoko.murota.1
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写真家・伊藤竜太とのコラボ・ブログ「音楽家の素顔(ポートレイト)」
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桃雪琴梨(Kotori Momoyuki)
クラシック音楽が好きな漫画家兼イラストレーター。室田尚子著『オペラの館がお待ちかね』のイラストを担当。漫画の代表作はショパンとリストの友情を描いた『僕のショパン』。後世で忘れられつつある史実のエピソードを再発見し、その魅力と驚きを創作者としての経験を活かして綴り、音楽家キャラ化ブームの先駆け的作品となる。ほかに書籍やゲームのイラストレーターとして活躍。趣味はピアノで講師資格取得。MENSA会員。