
取材・文:高坂はる香
ー2020年から継続するFor Future 巡回公演シリーズの東京公演が、今年は久々にサントリーホールで行われます。プログラムは、オール・R.シュトラウスを選ばれました。
どのホールで演奏するときももちろん気合は入っていますが、オーケストラのメンバーにもやはりサントリーホールはあまたの名演が繰り広げられる、特別なホールだという意識はあるでしょう。定期公演を開催しているオーケストラも多いので、どうしても他と比較されます。それを承知の上で、正面勝負のプログラムに決めました。
R.シュトラウスは「私が音符で表現できないことは何一つない」というほど腕前に自信を持っていた作曲家。それがただのハッタリではないことは『ドン・キホーテ』を聴けば明白です。風車の場面では風を切って飛ぶドン・キホーテとサンチョ・パンサが目に浮かぶよう。羊がいる情景では、目を閉じると本当に羊が放牧されている農園に迷い込んだと錯覚するほどです。
ーR.シュトラウスはお好きですか?
あれだけたくさんの“おたまじゃくし”を実際に音にする作業は、指揮者冥利に尽きると感じるものがあります。ありったけの絵の具を使って巨大なカンバスに絵を描くような感覚です。ただ、楽譜を読み込む作業は音符が多い分、指揮者もオーケストラも、ものすごく大変になります。スコアの段数も多い。目がタテについてたら良いと思うくらい。

ー沼尻さんがスコアから読み取ったものをオーケストラのみなさんと共有していくことになるのだと思いますが、それはどんなふうに伝えるのでしょうか。オーケストラごとに反応も違うでしょうね。
R.シュトラウスの場合、本当に見事にスコアが書いてあるので、説明しなくても自然とその表現にたどり着けるようなところがあります。ただ、細かい音符に囚われていては表現が小さくなってしまうので、タタミ何畳分もの紙に書を書くような勢いが大切です。
逆に最近神奈川フィルがシリーズで取り組んでいたショスタコーヴィチは、音符が少ないところが難しいのです。ソビエト時代の常に重しが載っているようなダークな感覚、子供にせがまれたバナナを数本買うために、早朝から何時間も並ぶ必要があった社会の厳しさ、身を切るような寒さ。それらを切り詰められた少ない音符で表現します。R.シュトラウスの場合はその反対で、これでもかというくらいたくさんの音符を使って描写するので、とても豊かな感じのする音楽です。実際、彼はオペラの権利料でとても豊かな生活をしていましたし!
ー近年の神奈川フィルは演奏会形式のオペラ公演も評判です。その経験も生かされてくるのでしょうか?
R.シュトラウスの交響詩は、彼のオペラ作品を体験してから臨むとオーケストラの音が変わるんです。オペラはメロディーに歌詞がついているので、「この音形が何を表しているか?」が常に明白で、そこで培った経験が交響詩を演奏する時に活きてくる。神奈川フィルでは2023年の《サロメ》が大変好評でしたが、それによってR.シュトラウスの演奏に関しては確実に一歩前進しています。

これはモーツァルトにも言えることで、そのオーケストラが《フィガロの結婚》を経験したかどうかで、例えば『ジュピター』交響曲の演奏は全く変わります。神奈川フィルでもいつか《フィガロ》を全曲やりたいですね。
『ドン・キホーテ』では、チェロの上森祥平さんとヴィオラの大島亮さんという我々の誇る首席奏者たちがソリストを務めます。名人芸を駆使する管楽器のソロも大変多いので、実力のあるすばらしいメンバーたちの魅力を知っていただける、絶好の機会になると思います。打楽器では「ウィンドマシーン」に注目してください。先ほど申し上げた風車の場面で大活躍をします。
ー『ブルレスケ』のソリストは小菅優さんです。彼女の表現は作品にとても合いそうで楽しみですね。
もう、ぴったりでしょう! 彼女には10年ほど前、リューベックで三善晃のピアノ協奏曲を弾いてもらったのですが、その演奏がすばらしくて惚れ込んでしまいました。『ブルレスケ』はオーケストラとピアノによる対決と調和が繰り返される作品なので、ピアニストには打鍵の強さが求められるんです。そこで「絶対小菅さんがいい!」とピンときました。音符の数が多いので、必ずしも全ての音が聴こえなくていいという人もいるのですが、小菅さんが弾いたら細かい音符も一つひとつ全て聴こえると思います。
ー音楽監督に就任されて5シーズン目となりました。オーケストラの変化も感じていると思いますが、改めて今、神奈川フィルにどんな印象を持っていますか?
いつもモチベーションが非常に高いですね。定期演奏会はもちろん、その他の公演でもとても忙しい中で、体を壊さず、常に高いクオリティを保って毎回本番に臨むのは大変なことだと思うのですが、団員は本当に熱心に仕事をしています。神奈川フィルのソロ・コンサートマスターは、おそらく日本で一番本番の多いヴァイオリニストの石田泰尚さんですが、彼は午後からリハーサルの日でも朝9時には来て個人練習をしています。彼を筆頭に、みんなきちんと準備をしてリハーサルに臨んでいて、頭の下がる思いです。
最近、地域との関係がとても良くなっている実感もあります。神奈川にはまだまだクラシックの聴き手が眠る“宝の山”があちこちにあると思うので、そこをしっかりと掘って行きたい。小田原にもホールができましたし、神奈川県民ホールがどんな形で再オープンするのかも楽しみです。都民のみなさんもたくさん神奈川フィルを聴きに来てくれていますから、いつか都民音楽フェスティバルに出ることも目標ですね。「サマーミューザ」ではたくさんの在京オケが神奈川県内で演奏するのですから、その逆も当然アリですよ!
神奈川フィルハーモニー管弦楽団 For Future 巡回公演シリーズ 東京公演
2026.8/7(金)19:00 サントリーホール
出演
沼尻竜典(音楽監督/指揮)
小菅優(ピアノ)*
大島亮(神奈川フィル首席ヴィオラ奏者)☆
上森祥平(神奈川フィル首席チェロ奏者)◇
曲目
R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」op.20
ブルレスケ ニ短調*
交響詩「ドン・キホーテ」op.35☆◇
問:神奈川フィル・チケットサービス045-226-5107
https://www.kanaphil.or.jp
※シリーズのその他の公演は上記ウェブサイトよりご確認ください。

高坂はる香 Haruka Kosaka
大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動。雑誌やCDブックレット、コンクール公式サイトやWeb媒体で記事を執筆。また、ポーランド、ロシア、アメリカなどで国際ピアノコンクールの現地取材を行い、ウェブサイトなどで現地レポートを配信している。
現在も定期的にインドを訪れ、西洋クラシック音楽とインドを結びつけたプロジェクトを計画中。
著書に「キンノヒマワリ ピアニスト中村紘子の記憶」(集英社刊)。
HP「ピアノの惑星ジャーナル」http://www.piano-planet.com/

