柴田俊幸のCROSS TALK 〜古楽とその先と〜
Vol.8 トン・コープマン(チェンバロ/オルガン/指揮)

 2月に5年ぶりの来日リサイタル・ツアーをおこなったバロック音楽の巨匠トン・コープマン。78歳のいまもなお、古楽の最前線で活躍する第一人者です。ツアーの終盤、エリザベト音楽大学セシリアホールでのオルガン・リサイタルの翌朝、広島市内のホテルで柴田俊幸さんがお話をうかがいました。

♪Chapter 1 バッハのエモさ

柴田俊幸(S) やっとリアルで会えましたね。ミスター・コープマン! あなたと話をするのは3回目です。コロナのせいで日本で会うことが長く叶いませんでしたが、お目にかかれて光栄です。

コープマン(K) こちらこそ、よろしくお願いします。さっき見せてくれたプログラム! 今年の「テューリンゲン・バッハ週間 Thüringer Bachwochen」でもリサイタルをするそうですね。残念ながら、私は自分のコンサートの翌日にフランスへ発つ予定なので、君の演奏を聴くことはできませんが、楽しんで!
 あ、そうそう。ヨーロッパでは誰も私のことを “Mr. ” 付けで呼ばないんですよ、ファーストネームで呼びましょう。トンって!

S ありがとうございます。では、始めましょう。ミューザ川崎での講演(注1)の内容のメモを読ませてもらいました。その日、私はあいにく、ヨス・ファン・フェルトホーフェン Jos van Veldhoven 指揮の「天地創造 Die Schöpfung」の練習に参加していたので、聴くことができなかったのですが…。

(注1)2月16日にミューザ川崎で開催されたトークイベント「トン・コープマンのバロック音楽談義 Vol.3」

K ああ、Jos! 彼も日本にいたんですね。それは知りませんでした。彼は古楽オーケストラを指揮したのですか?

S そうです。古典派・ロマン派の楽器を使ったオーケストラです。

K いい試みですね。メンデルスゾーンやベートーヴェンをやるときは、アムステルダム・バロック・オーケストラ(ABO)は小さすぎるし、我々にとって最適なレパートリーではないと思っています。だからABOはハイドンまでしかやりません。
 逆に現代のオーケストラに客演する時にそういったレパートリーに挑戦します。「私自身の芸術的限界はモーツァルトのレクイエムだ」と昔、言ったことがあります。ひょっとしたら、「ロンドン交響曲」までかな。そして「天地創造」も。
 これは芸術的な決断であると同時に、金銭面でもです。大きすぎるとコストがかかるので、財政的な決断は必要です。我々の世代でも、資金不足のために芸術活動が制限されるのは悲しいことです。コロナの後も文化芸術に対するお金まわりは減る一方ですが、私たちは政府に訴え続けないとダメですね。次の世代のためにも、我々ベテランが声を挙げるべきです。

S 川崎での講演では、バッハの音楽に込められた「感情(エモーション)」について語りましたよね。エモーションと言うと、なんだかロマンチックに聞こえ、古楽の概念から外れているような気もするので少し抵抗があります。

K もちろん、そう見えても仕方ないですね。「エモい=ロマンティック」と思われていますが、古代からエモさは存在しました。ただ、センチメンタル(=感傷的)なものではありません。ハイドンの後期に見られるようなロマンティシズムでもない。自然の中に普通に存在するものなのです。バッハの音楽をセンチメンタルに演奏するとしたら、それは間違いです。音楽の「本質」を語るのが我々の仕事だからです。

S では、J.S. バッハの「平均律クラヴィーア曲集」の表紙に書かれている「カンタービレ cantabile」についてもちょっとお話したいです。ここでいう「カンタービレ」は、先ほどの「エモさ」と関係するものなのでしょうか? それとも、やはり器楽的な技術についてバッハは語っていたのか、どちらだと思いますか?

K バッハの歌心、カンタービレというのを説明するのは難しい。我々、古楽の仕事では、感傷的になることはありません。戦後、近代の演奏スタイルを受け継いだ音楽家たちは、いつもロマンティックにガンガン歌っています。まず、「ロマンティックである=心を込めて歌う」というのは間違いであることに気が付きましょう。少なくとも、私にとっては明確な違いがあります。
 バッハのカンタータを演奏すると、そこには和声があり、舞曲の拍節感があり、色々な要素で曲全体が強く心に響きます。それはバロック的な感情なんです。

※バッハにおけるカンタービレについては、バンジャマン・アラールとの対談も参照してください

S 我々が話している感傷的(センチメンタル)というのは、たとえば近現代のブラームスの演奏にみられるような奏法、たっぷりなテンポ・ルバートにゴリゴリのヴィブラート、ということで間違いないですよね?

K その通り。一方、ブラームスのことを調べると、彼が古楽のレパートリーに強い関心を抱いていたことがわかりますね。ラモーのオペラの楽譜を編集したほどです。
 また18世紀の歌劇場では、歌い手がとても美しく感情的に歌うと聴衆が涙を流した、と伝えられていますが、現代のロマン派のレパートリーの公演が今日行われても、そのようなことは起こりません。これは表現する方法が違うからなのか、それとも観客の受け取り方が違うのか。一度見てみたいものです!

S 結局、このバッハが書いた、カンタービレって一体なんなのでしょうか?

K バッハの感情を正しく定義するためには、彼自身が長い人生の中で常に変化していったことを認めなければなりません。20代のバッハの演奏は、創造性に富んだ若いヴィルトゥオーゾは何でも演奏できたが、一方、ライプツィヒの人々に辟易した年老いたバッハは、昔と違った態度をとるようになったのかもしれません。作曲においてもそうですよね。初期の作品はブクステフーデのようなイタリア風の影響を受けていて、後のバッハとは少し違う作風です。一方で、モーツァルトを見ると、7、8歳ですでに「モーツァルト」のスタイルで作曲していますね。若きバッハはまだそこまでは達していない。バッハは、自分の流儀を模索し続けたことによって普遍性を獲得したのです。

S 今回の講演では、装飾音の話もたくさん出てきましたね。バッハというと「装飾を入れてはダメだ」と言われる教育者はさすがに減ったかと思うのですが(笑)…、カンタービレを実践する上で、装飾音はやはり有効ということで間違いありませんか?

K 楽譜をカンタービレにしようと思ったら、トリルやアッポジャトゥーラを加えなければなりません。でも、やればいいってわけではなくて、例えば、緩徐楽章のトリルをすごく速く弾くと、説得力に欠けますよね?

S 装飾の入れ方のセンスは絶対不可欠。Bon goût(良い趣味)ですね。

K 私はそう思っています。カンタービレという流儀を理解することも大事ですが、もう一つ大事なことは、音楽を楽しむこと。多くの古楽の演奏家たちは、ダイナミクスやアーティキュレーション、感情をコントロールする知的な部分に焦点を当てすぎています。それは音楽という芸術において、ほんの一部分でしかありません。
 シェイクスピアが戯曲を書くとき、文法通りの文章だけでしょうか? そこには日常生活ではないドラマ、悲しみだけでなく愛もある。さまざまな感情が必要なのです。コンサートや演奏会でも同じです。逆にすべてがカンタービレでも、おもしろくないですよね。どうすれば観客を飽きさせないことができるか。どうしたら楽しんでもらえるか、聴き続けてもらえるか。問い続けないといけません。
 例えば、君はトラヴェルソを吹くわけだけど、楽曲を面白くするために何をする?

S 装飾を入れて、拍節がズレているところを強調して、長い音はメッサ・ディ・ヴォーチェ messa di voce(注2)にトリル trill かフラットマン flattement(フィンガー・ヴィブラート) を入れますね。導音高めにとったり、あとフルートは強弱がつきにくいので、アーティキレーションを変えたりタイミングをずらすとか…。

(注2)長い持続した音で徐々にクレッシェンドとディミヌエンドをおこなう技法

K フルートを演奏するときのほうが、チェンバロよりも多くの選択肢があるんだね!(爆笑)
 バロックの演奏家というのは、装飾音と一緒に生きていくものです。しかし、決して多すぎてはいけない。ほどほどがいいのです。ただ使うだけで満足してはいけません。フラットマンを取ったら、多くの感情を奪ってしまう一方で、やり方がわからなければやらない方がいい。ぶち壊すだけ。ヴィブラートやフラットマン、メッサ・ディ・ヴォーチェをするときには、音楽を味わい深いものにするためのちょっとした「重み」が必要なのです。
 そして始め方と止め方…タイミングが重要です。それは音楽のすべての要素に関係しています。「ちょうど良いところ」を見つける。とっても本質的なことなんです。

S バッハの音楽におけるカンタービレの良い例としてどのような曲があるんでしょうか。。

K 例えば、“Trauerode(哀悼頌歌)” BWV198(注3)には、ハッ!とさせる瞬間があります。

(注3)カンタータ第198番「候妃よ、さらに一条の光を」BWV198

S “Trauerode(哀悼頌歌)”は大好きなカンタータの一つです。侯妃クリスティアーネに旅立って欲しくない、と言わんばかりに終止を避け続ける冒頭の和声進行が、ザクセンの人々の彼女に対する愛を表しているような気がして…。ヴィオール2つにリュートも2つ(!)と楽器をふんだんに使い、とってもカラフルなのも美しさの特徴ですね。

K ところで、この曲ではテンポが非常に重要です。遅すぎると、もう連続性が失われます。しかし、アップテンポで幸せであってはならない。国民に愛された王妃が亡くなったのです。このカンタータは知識人、富裕層の人たちが喪に服す瞬間があり、彼らは公式の喪の行為で、女王への愛を伝えようとします。最後のコーラスを聴くとき、とても遅くなることがあるのですが、それはうまくいきません。

S 12/8拍子なので決して遅くはない。でもあまりに早すぎると、誰も歌詞を発音することができませんね。

Doch, Königin! du stirbest nicht
from Laß, Fürstin, laß noch einen Strahl, BWV 198

K その通りです。この楽章はカンタービレ、つまり歌うことです。素晴らしい例です。“Doch, Königin! du stirbest nicht…”(王妃、あなたは亡くなりませんよ)という歌詞で、時が止まるような瞬間があります。とても修辞学的ではありませんか?
 もちろん、バッハが書いた音楽の中でも最高の歌詞をもつ作品の一つです。それはヨハン・クリストフ・ゴットシェート Johann Christoph Gottsched が書いたものです。個人的にはバッハが彼と仲良くしていたとは思えません。ゴットシェートはバッハについて、「彼はとても特別で才能がある」と記しています。彼の妻であるルイーズ・ゴットシェートは、バッハのパルティータの1番をチェンバロで演奏したそうです。ただ、それを仕上げるのに、何年もかかったそうですが(笑)。彼女はとにかくプロの音楽家ではなかったのです。でも、彼女はとても知的でクールな知識人だった。でも、彼女はバッハよりもハッセの方が作曲家としてずっと好きだった。ハハハ。ハッセはそれに超絶技巧を押し付けるような楽曲で、 そういうのが彼女の好みだったようです。

Johann Christoph Gottsched (1700-1766)

 話がズレますが、(楽譜が現存しない)「マルコ受難曲」をめぐる大きな議論として、このカンタータが流用されたという説もありますが、ライプツィヒのゴットシェートが、彼が詩人とさえ思っていなかったピカンダーがテクストを書いたの別の作品に流用することを許可したということをイメージすることができません。私はこの “Trauerode” が「マルコ受難曲」の基礎に使われたとは到底思えませんね。この受難曲はイエスの苦悩を描いたものだと想像してください。先ほど話した最後のコーラスを、みんなでユニゾンで歌うというのがイメージできないのです。

♪Chapter 2 程よいテンポを見つける

S 「ちょうど良さ」というテーマで、“tempo giusto”と言うのは簡単ですが、 「正しい」テンポを見つけることは音楽家の我々でもけっこう難しいです。何か上手く見つける手引きはありませんか?

K 例えば、70代の私と30代の君では、tempo giustoも違うということを理解しましょう。あなたが音楽をどう感じるかにも大きく依存します。どんなエネルギーを持っているか。まあ、私のエナジーレベルはあなたほどではありませんが(笑)。

S いやいや! 昨夜のバッハの演奏を聴いたら、誰もあなたが78歳だとは思わないでしょう!

エリザベト音楽大学セシリアホールのオルガンを弾く

K ありがとう。でもバッハが55歳か56歳の時、彼のオルガンの足捌きは他のオルガニストの指回りよりも早かったと言われています。彼は偉大なヴィルトゥオーゾでしたから、必要であれば、超特急で演奏したかもしれません。それも tempo giusto です。
 あとはオランダやドイツの教会で、残響がたくさんあることを意識しましょう。そうすると会場ごとに tempo giusto が異なるということがわかりますね。あと、どの楽器で演奏するのかを確認する必要があります。環境や道具が違えば、ベストなテンポは同じではありません。

S ピッチもそうでしょうか? 例えば、415Hzで弾くのと392Hzで弾くのでは、楽器の発音のし方が変わるので、テンポも変わりますよね。

K その通りです。演奏する楽器で何ができるかが違うので、結果も変わるのは当たり前です。あと、方向性を保つことができるテンポが tempo giusto です。そのテンポだと音楽と共にどこかへ旅することができる。

S それはカンタービレで話したこととよく似ていますね。

K そう、カンタービレの大切な要素の一つです。 cantabile と tempo giusto の複雑さは同じです。今日は ルンルンでも、明日は凹んでるかもしれない。そうすると、同じ曲を演奏しても違う演奏になる。私はそれを今でも tempo giusto と呼んでいます。“C’est la vie”、つまり人生を受け入れること。あなた自身を尊重してあげること。自分のやりたいことを知性でコントロールするのはいいけれど、知性に自分自身が負けてはいけないと思うんです。

S 自分に正直であること。それは「感情的(エモーショナル)」とも呼べるかもしれませんね?

K 本当にその通り。ところで、レオンハルトのレッスンを受けると、「感情は重要じゃない」というのですが、彼のリサイタルに行くと、彼の耳がぴくぴく動いているのが見えたのがとっても面白かった。あれは、興奮している、感情的になっているというサインなんです(笑)。コレッリの場合は、目が燃えたぎる炎のように赤くなるのがサインと言われていましたよね。それと同じです。

S 人間としてのバッハは、ファゴット奏者との大喧嘩や流刑されたことなど、私たちが抱いている神様のようなイメージとは違う、いろいろ人間らしいエピソードがあります。バッハの人格は、私たちの演奏に影響を与えるべきものなのでしょうか。

K 1900年頃でしょうか。人々はJ.S. バッハを(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネに続く)5番目のエヴァンゲリスト(福音史家)にしようとする大きな間違いを犯しました。彼を宗教的な人物に仕立て上げようとしたのです。
 私にとっては、バッハがただの人間であったことは良い事実だと思います。彼は非常に気難しい人間でしたが、魅力的でもありました。天才の彼にとっては何一つ満足できるものはなかった。彼が残した作品でさえ、自分にとって十分なものではなかったのです。彼にとっての「合格点」はとても高いものでした。
 間違って理解しないでほしいのは、彼は信仰深い作曲家だったのではなく、普通の人間が宗教音楽を書いただけなのです。アンナ・マグダレーナが「ご飯できたわよー」と夕食に呼んだとき、彼はペンを止めてテーブルに座って一緒に食事をしました。彼は家庭的な人だった。聖歌隊の一人が上手く歌えなかったら棒で殴った。普通の厳しい先生です。
 バッハを一人の人間として捉えるべきですね。 でも、作曲家としてのバッハを過小評価してはいけない。バロックの作曲家で彼に敵う作曲家はいません。モンテヴェルディが次点でしょうか。
 当時、ライプツィヒに来た知識人たちは、必ず会うべき重要な人物が二人いました。ゴットシェートとバッハです。バッハは特別な存在だったのです。でも、彼はパイプを吸い、白ワイン、特にモーゼルワインを飲んでいました。僕は赤ワインの方が好きだけどね(笑)。ともあれ、彼は人の子なんです。

♪Chapter 3 AIはバッハを超えられるか

S AIについて質問させてください。というのも、これがなかなか面白いんです。情報を入れるだけで、その人の感情や性格を持ったデジタルアバターを生成できるプログラムが世の中にはあるんですよね。ということは、いつかJ.S. バッハそっくりのアバターが作れるようになるかもしれません。その結果、バッハのように演奏したり作曲したりするアバターも誕生するかもしれません。
 そうなると、私たち古楽をやっている人間はどうなるのでしょう? もしかしたら、形成されたアバターが当時の演奏により近い演奏をするようになるかもしれません。ある意味、恐ろしいことだと思います。

K 面白い質問だね。ただ、バッハのような人の真似をするのは不可能だと思うよ。天才には機械にも予知できない、独創的な「例外」をつくりだす能力があるのです。その例外をつくりだす能力をプログラミングするのは難しいでしょう。もしかしたら、バッハの例外をすべてまとまった集合として入力し、バッハのような音楽を書くプログラムを作ることができるかもしれません。それで満足なのでしょうか?

S 「例外」をつくりだすプログラミングって、ルールの中でつくる以上、それはもはや想定外ではありませんよね。「バッハっぽいよね」となるぐらいで、もはやびっくりはしないかも。

K それで我々は満足なのでしょうか? よーく考えてみて下さい。私は妻と一緒に Netflix を見ています。一回見ると、自動的に次に何を見るか教えてくれますが、私はそれに従いません。これも独創的? ハハハハ。
 バッハ、モーツァルトのように独創的な人…彼らは同じ知識を持っていたのに、みんな違う。それが素晴らしいことだと思うんです。それが私たちの目指すところでしょう? バッハを大量生産しちゃいけない。行き過ぎないようにしましょう。

S では、AIがバッハ本人に限りなく近い演奏をしたとしても興味はないのですか?

K はい、興味はありません。

S コンサートも行こうとしませんか?

K はい、おそらくないです。すみません(笑)。むしろ、こうした試みがどれだけ未来に残るのか、気にはなります。AIのつくり出すものが、我々音楽家がやっているような面白いものであれば、これからも地球上に残るでしょう。

(取材協力:ムジカキアラ)


トン・コープマン
Ton Koopman, harpsichord/organ/conductor

©︎Foppe Schut

オランダ、ズヴォレ生まれ。アムステルダムで、クラシック音楽教育を受け、オルガンとチェンバロ、音楽学を学び、両方の楽器で優秀賞を獲得している。
古楽器に魅了され、文献学的な演奏方法に惹かれたコープマンは、特にJ.S.バッハを中心としたバロック音楽の研究で、オーセンティックな演奏の第一人者と呼ばれるようになった。
指揮者としても、手兵アムステルダム・バロック管弦楽団・合唱団を率い、初期バロックから後期古典派までをレパートリーとし、世界各地で演奏活動を行っている。 また客演指揮者としても世界の一流オーケストラに迎えられることが多く、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ニューヨーク・フィルハーモニック、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団、シカゴ交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、ボストン交響楽団、クリーヴランド管弦楽団などとも共演している。
コープマンの意欲的な活動の中でも、バッハ・カンタータ全集の録音は大事業として、ドイツ・シャルプラッテン・ベルリンのECHOクラシック賞やBBC音楽賞、エクトル・ベルリオーズ賞などを受賞、またグラミー賞やグラモフォン賞にノミネートされた。
バッハ作品に加えて、コープマンは、バッハの後継者ディートリヒ・ブクステフーデの研究も長年続けており、国際ディートリヒ・ブクステフーデ協会の会長を務め、2012年には、リューベック市のブクステフーデ賞とライプツィヒ市のバッハ賞、2014年には英国王立音楽院のバッハ賞を受賞した。
オランダ・ライデン大学教授。英国王立音楽院の名誉会員。オランダのバロック音楽祭 “Itinerarie Baroque” 芸術監督。


柴田俊幸
Toshiyuki Shibata, flute/flauto traverso

© Hiroshi Noguchi

フルート、フラウト・トラヴェルソ奏者。大阪大学外国語学部中退。ニューヨーク州立大学卒業。アントワープ王立音楽院修士課程、ゲント王立音楽院上級修士課程を修了。ブリュッセル・フィルハーモニック、ベルギー室内管弦楽団などで研鑽を積んだ後、古楽の世界に転身。ラ・プティット・バンド、イル・フォンダメント、ヴォクス・ルミニスなど古楽器アンサンブルに参加し欧州各地で演奏。2019年にはB’Rockオーケストラのソリストとして日本ツアーを行った。ユトレヒト古楽祭、バッハ・アカデミー・ブルージュ音楽祭などにソリストとして参加。アントワープ王立音楽院音楽図書館、フランダース音楽研究所にて研究員として勤務した。たかまつ国際古楽祭芸術監督。 『音楽の友』『パイパーズ』『THE FLUTE』Webマガジン『ONTOMO』などに寄稿。
Twitter / @ToshiShibataBE
Instagram / @musiqu3fl711
https://www.toshiyuki-shibata.com