文:林昌英
ショスタコーヴィチは“ムズカシイ”?――そんなことはありません‼
「20世紀ソヴィエトを代表する大作曲家、ドミートリー・ショスタコーヴィチ(1906〜1975)」
筆者はショスタコーヴィチについて書くときはだいたい、このような一文から始めます。
しばらく前までは、「少年時代から才能を発揮した天才だったが、スターリン以降のソヴィエト当局の批判や圧力に翻弄された作曲家…」「しかし、表面的にはわかりやすい楽曲を作って当局に従っているように見せながら、批判的な裏のメッセージを巧みに込めるという二重言語を駆使して、体制の矛盾や理不尽さを音楽で告発してきた…」といった説明もセットになっていたと思います。
こういう認識は、裏を返せば、ソヴィエト連邦のことを知らなければ、そしてソ連時代の演奏を知らなければショスタコーヴィチは理解できない、という考え方にもつながります。「ショスタコは苦手で…」という人が多かったのも、独特の音楽語法と併せて、そういった思考が苦手意識を生んできたのかもしれません。
実際、20世紀中は実演で聴ける機会が限られていましたが、21世紀に入ってから、2006年の生誕100年のアニバーサリーも経て、ショスタコーヴィチがコンサートで取り上げられる機会は飛躍的に増加しました。そして没後50年の2025年、いまや国内オーケストラの定期演奏会で、ショスタコーヴィチの作品が存在しないシーズンは考えられません。愛好する聴衆の層が拡大するにつれて、この作曲家にのめりこむ演奏家もプロアマ問わず多数現れました。
そして、「作品に込めたものは体制批判だけ?個人的な恋愛感情のメッセージも多い」「裏の意図にこだわらずとも、音楽自体がカッコいい!」といった、新しい研究成果による作曲家像の変化、さらには背景にとらわれず柔軟に接することも可能になりました。
まずは聴きやすいところから……
面倒な話はこの辺にして、曲の紹介へ。せっかく新年公開の記事ですので、今年生誕200年のヨハン・シュトラウスⅡ世のポルカ「観光列車」はいかがでしょう? ただし、ショスタコーヴィチ編曲版です。劇場でオペレッタを上演する際にこの曲が必要になり、楽譜を取り寄せる時間もないのですぐに編曲してほしい、という依頼に応えて、なんと一晩で書き上げたと伝えられます。ムリな注文をサラリとこなしたばかりか、オーケストレーションやハーモニーの工夫(突然の転調も!)など遊びも入れて個性を刻印した、見事な仕事ぶり。
編曲の速さで言えば、とある指揮者宅で「いまから聴かせる曲をこの場で1時間以内に編曲できるか」と挑まれ、わずか45分で管弦楽編曲を完了したという「タヒチ・トロット(ふたりでお茶を)」も有名です。“ムチャぶり”に燃えるタイプだったようですね。
「観光列車」 (ショスタコーヴィチ編曲版)
若い頃には無声映画にピアノ実演で音楽を付ける仕事に携わり、その後は映画音楽も多数作曲、バレエ音楽や舞台用音楽、オペレッタなど、誰でも楽しめる気の利いた楽曲を多数残しています。この「ワルツ第2番」はみなさんご存じの名旋律。映画『アイズ・ワイド・シャット』をはじめ、多くの映像作品で使われて広く知られました。
「ワルツ第2番」
“炸裂”と“静寂”――オーケストラの醍醐味を堪能!
ショスタコーヴィチを代表する作品群といえば、やはり交響曲と弦楽四重奏曲。いずれも15曲ずつで、ショスタコ愛好家にとって「15」という数字は特別なものになっています(⁈)
15の交響曲は、1925年にわずか18歳 (19歳になる数ヵ月前)で完成させて瞬く間に世界中で演奏された第1番から、不思議な引用と透明感にあふれた謎の多い1971年完成の第15番まで、作曲活動の全般にわたって作られています。15曲を辿ることで、ショスタコーヴィチの人生を、さらにはソヴィエトの政治体制や戦争といった歴史をも(ある程度は)知ることにつながる、というのは言い過ぎでしょうか。
さらに強調したいのは、そういった背景とは関係なく、圧倒的なオーケストラの音を聴くよろこび、あえていえば“音響の快楽”を堪能できるのが、ショスタコーヴィチの交響曲の魅力であること。例えば、要所での打楽器や金管楽器の炸裂ぶりは格別で、演奏者の心を鷲づかみにしているとききます。全楽器が一体となったフルボリュームの大音響は、聴衆も奏者もある種のトランス状態に陥るほどです。
その対となる特徴が、弱音の表現の凄まじさ。見てはいけない闇を覗いてしまったような深淵、身も世もない孤独、もしくは苦難を経たわずかな救いとしてのソロの歌など。弱音の多彩な表現こそは、シンフォニーに限らずショスタコーヴィチ作品の真髄といえるでしょう。のけぞるような大音響を浴びた後、静かな空間に繊細で真摯な音色が響き渡る体験は、コンサートホールでオーケストラを聴く醍醐味そのものです。
今年、国内の演奏会で最もよく演奏される予定の交響曲は第10番。かのカラヤンが唯一録音した(しかも複数回)ショスタコーヴィチ作品で、作曲者のイニシャル音型「DSCH」※が頻出するなど多くのメッセージや謎もありますが、堅固な構成による硬派な交響曲として、音楽そのものを味わえる名作です。ことに強烈なのは、嵐のような音楽が吹き荒れる第2楽章。4分間、オーケストラが猛烈なスピードでばく進し、息もつかせぬ圧巻のエネルギーを放出します。
※ドイツ音名でD(レ) Es→S(ミ♭) C(ド) H(シ)
交響曲第10番より第2楽章
ピアノ、ヴァイオリン、チェロに2曲ずつ残した協奏曲も重要なジャンル。なかでもショスタコーヴィチの最高傑作との呼び声も高いのが、ヴァイオリン協奏曲第1番です。
思索的で不安気な第1楽章、技巧的で精密な第2楽章、得意の「パッサカリア」形式で絶美の旋律が歌われる第3楽章、長いクレッシェンドの圧巻のカデンツァを経て、追われるような切迫感と協奏曲の快感を両立した第4楽章。彼の特徴が最良の形でまとまった名作です。今年最も演奏機会の多い予定の作品でもあり、ぜひ実演で体験してください。
ヴァイオリン協奏曲第1番 :トラック5~8
オーケストラ作品だけじゃない!ショスタコーヴィチののこした「宝の山」
この作曲家の語法に馴染みを覚えた方は、室内楽曲もぜひ。メロディックなピアノ五重奏曲、ピアノ三重奏曲第2番は聴きやすいかもしれません。そして、質・量(数)ともにベートーヴェンに匹敵すると称えられるのが、15の弦楽四重奏曲です。最もよく演奏されるのは第8番ですが、どの曲も汲めども尽きぬ深い魅力をもつ逸品ぞろいです。
歌劇《ムツェンスク郡のマクベス夫人》は20世紀オペラの大傑作だし、多くの歌曲も味わい深いし……とおススメは尽きないのですが、最後にショスタコーヴィチのセンスがわかる、ピアノ作品の「24の前奏曲とフーガ」から、第1曲をご紹介。本作は全曲で2時間を超える大作で、バッハに倣い器楽的な形式を採用しながら、変化に富んだ楽曲が続き、最後には巨大な世界を構築してしまう重要作です。その開幕となる第1曲は、まるでキース・ジャレットのプレイを先取りするような(実際ジャレットは本作集を録音しました)前奏曲と、ピアノの白鍵だけのフーガです。特に後者の至純の美は格別。
「24の前奏曲とフーガ」より第1曲
聴くなら、いま!
ショスタコーヴィチの作品が「時代の証言」のような役割を担ってきた側面はたしかにあります。20世紀、ソヴィエト社会主義共和国連邦という超大国が存在し、世界が冷戦の緊張に覆われ、ベルリンの壁、鉄のカーテンといった有形無形の壁があり、越えようとした人が殺される映像が当たり前だった時代。
当時の空気感をわずかでも知る者にとって、ショスタコーヴィチの音楽からそれを感じられる限り伝えなくてはという使命感と、それを踏まえた解釈は重要なものになります。一方で、その空気感を知らないからこそ見えてくる、先入観のない清新な作品の姿も大切です。多様な観点から検証(=演奏)され続けてこそ、貴重な資料の価値が増していくように。
もちろん、真に「虚心に音楽(楽譜)と向き合う」ことは簡単ではありません。ただ、近年になり、そういった新旧の構図から脱却した、最良の意味での純音楽的な名演奏が実現してきています(例えば、2024年12月に実現した、ロバート・トレヴィーノ指揮&東京都交響楽団の交響曲第8番など)。
現在はちょうど過渡期にあり、新たな考え方や伝統というものが構築されていく時期。この変遷や発見をリアルタイムで体験できる、願ってもない巡り合わせといえるでしょう。ショスタコーヴィチを聴くなら、一番おもしろいのは、いまです。
\もっとショスタコーヴィチ作品を聴きたい方に!/
交響曲は本文で取り上げた第10番のほか、作曲者生前から現在まで人気作であり続ける第5番はもちろん、スケールの大きな第7番、深い内容で迫力と弱音を堪能できる代表的傑作・第8番、描写的で格好いい音楽が興奮を生む第11番なども、存分にショスタコーヴィチ・サウンドを堪能できます。
なかでも、5,7,8,10番の第1楽章中盤に現れる、ひたひたと迫るような長いクレッシェンドの場面はオーケストラならでは。これらに浸れたら、奇怪な場面の連続が絶妙な一体感を得た天才的大作の第4番、社会的タブーに挑戦しながら重く感動的なメッセージを伝える第13番、先述の第15番などもぜひ。
演奏音源は、やはりソヴィエト時代の巨匠たち、エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮&レニングラード・フィルの歴史的録音や、キリル・コンドラシン指揮&モスクワ・フィルの全集は外せないでしょう。ベルナルト・ハイティンク指揮の“西側”初の全集も音楽的で色あせません。20世紀の枠組みから開放されつつある現代の演奏もそれぞれにすばらしく、贔屓の演奏家も見つかることでしょう。
コンドラシン&モスクワ・フィルの交響曲全集
ハイティンクによる交響曲全集
弦楽四重奏曲は、第8番の他にも、親しみやすい第1番や第3番が著名で、シンフォニックな第2番や第9番、第10番も楽しめます。第10番までの作品なら接しやすいと思いますが、より深みにハマりたい方は第11番以降の後期作品5曲もぜひ。
演奏音源は、これも一度はボロディン弦楽四重奏団で聴いていただければと思います。第1ヴァイオリンがミハイル・コペリマン時代の全集録音が最高です。現代の代表的団体では、2度目の全集をリリースした、激アツにしてクールなダネル弦楽四重奏団が大注目です。
ボロディン弦楽四重奏団による全集
ダネル弦楽四重奏団による全集
【Profile】
林 昌英(はやし・まさひで)
出版社勤務を経て、音楽誌制作と執筆に携わり、現在はフリーライターとして活動。「ぶらあぼ」等の音楽誌、Webメディア、コンサートプログラム等に記事を寄稿。オーケストラと室内楽(主に弦楽四重奏)を中心に執筆・取材を重ねる。40代で桐朋学園大学カレッジ・ディプロマ・コース音楽学専攻に学び、2020年修了、研究テーマはショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲。アマチュア弦楽器奏者として、ショスタコーヴィチの交響曲と弦楽四重奏曲の両全曲演奏を達成。