2025年はモーリス・ラヴェル Maurice Ravel(1875〜1937)の生誕からちょうど150年。パリ管弦楽団の本拠地フィルハーモニー・ド・パリに隣接する音楽博物館では、昨年12月3日から今年6月15日まで半年余りにわたり、ラヴェルの生涯と「ボレロ」にスポットを当てた大規模な展覧会が開かれています。パリ在住の音楽ライター、岡田 Victoria 朋子さんに、アニバーサリーで盛り上がりをみせる現地の様子を早速レポートしていただきました。
取材・文:岡田 Victoria 朋子
クラシック音楽で世界最大の演奏回数を誇ると言われるラヴェルの代表作「ボレロ」。旋律が全く展開されることなく、オーケストレーションだけを変えて延々と演奏されるこの曲は、動機・旋律・和声などをどのように展開し変容させるかを重視してきたそれまでの西洋音楽の常識を破る革新的な曲だ。この作品の魅力や背景、制作に至るまでのラヴェルの人生を掘り下げることで、ラヴェルの創造性と独自の音楽観を紹介しようというのが展覧会の狙いである。
「ボレロ」の概要と制作背景
「ボレロ」は、かつてバレエ・リュスの花形ダンサーだったイダ・ルビンシュタインの依頼によって、1928年、ラヴェルが53歳の時に作曲され、同年11月に初演された。スペイン風の音楽を元にした作品を提案されたラヴェルは、当初アルベニスのピアノ曲集「イベリア」から数曲をオーケストレーションしようと作業を始めたが、著作権問題によりこれを断念。最終的に、彼自身がある手紙で述べているように、「いわゆる形式もなく、展開も転調もほとんどない(中略)テーマで、リズムとオーケストラ」で貫くという「実験的な」プロジェクトとして作曲された。
終始小太鼓が打つ一定のリズムの上に、16小節の二つの旋律が変化なく交互に繰り返され、楽器が少しずつ加わりながら全体が盛り上がっていく「ボレロ」。その単純さが単調になるどころか、むしろ聴衆に強烈な緊張感と興奮をもたらしている。このシンプルさの中にラヴェルの緻密さと機械性が凝縮され、クラシック音楽と、ミニマル音楽につながる前衛的な要素を融合させた新たな地平を切り開いた点で際立っている。大きなクレシェンドの末に転調しクライマックスに至った後、一瞬で全てが崩れるようなフィナーレも印象的だ。初演以来、振り付け家たちが新たな解釈をもたらし、多くの舞台で披露され続けている。
展覧会会場に入ると、まずクラウス・マケラ指揮パリ管弦楽団による「ボレロ」全曲演奏の特別映像が待ち構えている。団員が螺旋状に配置され、リズム、旋律、ハーモニーが黄、赤、青のライトで可視化されるという演出で、映像の美しさと音楽の迫力が一体となり、観客に深い印象を残す。
「ボレロ」に反映されたラヴェルの生い立ちと影響を物語るオブジェたち
発明家の父のもとで育ったラヴェルは幼少期から精密さや創造性に惹かれていた。音楽以外にも絵画や機械工学などに興味を持ち、特に機械的な動きや構造に強い関心を寄せていた。また、小さなものへの愛着も彼の特性であり、これらが「ボレロ」におけるリズムの機械的反復や精緻な書法に表れている。展覧会では、こうした背景を示す多彩なオブジェが展示されている。たとえば、ラヴェルがアメリカ旅行中に隅々まで見学したというフォード自動車工場の写真や、フリッツ・ラングの映画『メトロポリス』の抜粋映像。また、彼が収集して遊んだ各種パズルや、プロ級の腕前を誇っていたプロコフィエフとのチェス対戦を再現したチェス盤も展示されている。
特に注目すべきは、神戸で制作されたからくりおもちゃである。現在ラヴェル博物館となっているパリ郊外モンフォール・ラモリのラヴェルの家「ル・ベルヴェデール」のスタッフによれば、これらは1890年から1920年頃に元町や布引の滝の土産物店などで裕福な欧米人向けに販売されていたものだという。音楽アドバイザーのリュシー・カヤス氏は、展覧会開催に伴うリサーチによってこれらのおもちゃのルーツの詳細が今回初めて明らかになったとし、重要オブジェとして特別に紹介している。ラヴェルがこれに触れながら日本に思いを馳せていたと想像するのも楽しい。
さらに、ラヴェル自らがモチーフをデザインして制作した壁紙も。この壁紙からは、彼の緻密さと美的センスが伝わってくる。
「ル・ベルヴェデール」に迷い込んだような展示
展覧会会場の縦長のスペースは「ル・ベルヴェデール」の縦長建築にインスピレーションを受けたもの。実際に彼が使用していた家具などは、壁に組み込まれたクローゼット風スペースに展示され、ラヴェルの几帳面さを伝えている。初公開を含む多くの写真のいずれにも、ラヴェルは一流のダンディとして映っており、完璧な身だしなみにとくに気を使っていた様子がうかがえる。また、スーツケースの中のハンガーにかけられた驚くほど小さなベストからは、彼の体格の繊細さが想像できる。
会場のあちこちでは、さまざまな演出による「ボレロ」の上演映像が鑑賞できる。初演時のスペイン風情を感じさせるものから、ロック調やエレクトロ風などの現代的なアレンジによるダンスまで、世界中で「ボレロ」がどのように受け入れられ、それぞれの文化に適応してきたかを知ることができる。
音楽ファンにとって最大の見どころは、なんといっても「ボレロ」の自筆譜だろう。フランス国立図書館から特別に貸し出されたこの自筆譜にまつわる新たな発見も。ラヴェルの書斎にはインチ目盛りの定規がある。これまでなぜセンチではなくインチなのか疑問だったが、展覧会準備中、学術責任者のピエール・コルゼリウス氏が、この定規の幅が自筆譜の小節の幅と完全に一致していることを見つけたのだ。ラヴェルの几帳面さと実際的な側面を象徴するエピソードである。
現代性と革新性に満ちた「ボレロ」の秘密
「ボレロ」展は、ここでは紹介しきれないほど多彩な品々や映像が散りばめられている。時代や文化的背景をたどりながら、ラヴェルの人生を深く知ることができると同時に、現代性と革新性に満ちた「ボレロ」の秘密に迫ることができるという、ラヴェルの世界をこれまでにない角度から体験できる充実した展覧会である。
取材協力:Philharmonie de Paris
【後記】
この記事執筆中、ラヴェルのスペシャリストで作品の総合カタログを編んだマルセル・マルナ氏が91歳で亡くなられました。このカタログに基づく作品番号は氏のイニシャルをとってM.で表示されます。ご冥福をお祈りいたします。
岡田 Victoria 朋子
パリ・ソルボンヌ大学音楽学博士。パリを拠点とする国際音楽評論家協会理事。フランス、ベルギーのフランス語圏の文化・音楽専門誌に批評・記事を執筆するほか、2009年から白水社の雑誌『ふらんす』で「アート&スペクタクル」欄を担当。現在、日本の作曲家に関する音楽プロジェクトをフランスで立ち上げつつある。翻訳家としての最新訳書は平凡社『北斎画法』の仏訳。
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