文:青澤隆明
春になれば、シューベルトのことを想う。それは、めぐる季節が自ずと、生と死、あるいは再生についてなにかの気配を感じさせるからだ。冬のあとに春が訪れる。そのように歳月をかけて、季節が私たちの情緒や思惟をかたちづくってきたに違いない。春がやってきて、ほころんだ空気のなかで、また集まって音楽を聴けるのは、なんとよいことだろう。
そうした想いのなかには、これまで東京春祭で聴いてきたシューベルトの演奏の記憶も自然と溶けこんでいる。ピアノに関しては、エリーザベト・レオンスカヤが2018年のソナタ・チクルスで作曲家の初期から最晩年までを旅したことが大きい。視野を広くもって、17年の《合唱の芸術シリーズ》で変ホ長調ミサD950や、ギタリストの鈴木大介を中心とした20年の《シューベルトの室内楽》などを思い出される方もいらっしゃるだろう。
シューベルトを軸にしたピアノ音楽の物語
来たる22年の東京春祭では、ピアノ・リサイタルのプログラムに、4人の名手が招かれている。3月終わりにセルゲイ・ババヤン、4月に入ってアレクサンドル・メルニコフとアンドレアス・シュタイアー、しめくくりにはデジュー・ラーンキが東京文化会館小ホールのステージに上がる。ロシア、ドイツ、ハンガリーの出自、年代的には1950年から60年代、70年代生まれと多様な面々だし、それぞれの音楽的個性も注目される。
プログラムはメルニコフとシュタイアーがシューベルトに集中し、ババヤンとラーンキは多彩な作曲家のプログラムで、その前後を見通しつつピアノ音楽の豊穣を物語る。
東京春祭が重視してきたロシア・ピアニズムの系譜で言うと、ババヤンとメルニコフはともにレフ・ナウモフをモスクワ音楽院での師とした。ババヤンは同院でプレトニョフとゴルノスタエヴァに、メルニコフはミュンヘンでヴィルサラーゼにも師事し、リヒテルとも親交をもった。アルメニア系のババヤンが、1950年のソ連に生まれたリャボフのハ短調幻想曲op.21《マリア・ユーディナの思い出に》を愛奏し、ユーディナが得意としたバッハや同時代音楽への視野をもつのも、そうした濃密な繋がりを感じさせる。
バッハから20世紀へと旅するババヤン
先陣を切るセルゲイ・ババヤンは、バッハ、リストから、ラフマニノフ、ペルト、リャボフでロシアの20世紀を展望する。アルヴォ・ペルト1976年の静謐な「アリーナのために」で始め、リストのロ短調バラード、バッハの《プレリュードとフーガ》をいくつか弾き、ドイツとロシアの接面のようにリャボフが1983年に作曲したファンタジアを経て、最新アルバムにも収録したラフマニノフの名曲で、彼らしい重量級のプログラムを締めくくる。
メルニコフとシュタイアーのシューベルト
アレクサンドル・メルニコフはかねてより東京春祭の信望も篤いピアニストで、2015年の《24の前奏曲シリーズ》において、ショスタコーヴィチ、ドビュッシー、そしてショパンにスクリャービンを合わせた3つの連続コンサートが忘れ難い。ピリオド楽器による演奏表現の豊かさに関して言うと、アンドレアス・シュタイアーに師事して知見を深めるだけでなく、良き友人どうしとして音楽的な交感を保ってきたことも大きい。シュタイアーがモダン・ピアノを達者に弾くときもそうだが、歴史鍵盤楽器に通じた想像力はメルニコフが作品の原像を見据え、効果的な演奏表現を導くことに繋がっている。
メルニコフは、シューベルトのイ長調D664とト長調D894の名作ソナタ2曲に、最晩年の《3つのピアノ曲》D946を挿む構成で、コンパクトなうちにも作曲の進展を凝縮するかたちだ。チェンバロとフォルテピアノでの評価が先行したシュタイアーはドイツのピアニストとしての美質を備えた名手で、ここでは最晩年の《楽興の時》D780と変ロ長調ソナタ D960をじっくりと据え、幕開けにはハ短調の即興曲D899-1も弾く。
シューベルティアーデの雰囲気を醸し出すデュオ・プログラム
ふたりのソロ・リサイタルの間には、4手連弾のデュオ・プログラムが組まれ、まさしくシューベルティアーデに近い趣を伝える。ハウスムジークとして始まったシューベルトの4手創作は、ディヴェルティメントなど演奏会を意識した華やぎや、ヘ短調幻想曲D940という最晩年の境地までの広がりをもつようになる。生前の出版作も多い人気分野で、舞曲らしい愉楽にも溢れるが、親密なだけに留まらない深淵が覗くのもシューベルトの本懐だ。シュタイアーとメルニコフは公演曲目の大半をフォルテピアノで録音もしているが、即興の名手としての自由もみせつつ、親愛を超えた果敢な表現も交わして刺激的なデュオを聴かせるに違いない。
ラーンキが待望の来日へ
そして、デジュー・ラーンキである。4人のなかで最年長となるハンガリーの名手は、いま70歳に入って円熟へと向かうさなかだ。派手やかな活躍とは違えども、実直に音楽を愛してきた良さは、それだけに信頼のおけるものだろう。プログラムもそうした進境にふさわしく、もともとはベートーヴェン・イヤーに予定されたなかでも、ラーンキは嬰ヘ長調 op.78「テレーゼ」とニ長調 op.28「田園」のソナタを選んでいた。ハイドンの変イ長調ソナタHob.XVI:46とベートーヴェンの間には、ドビュッシーの2集の《映像》で20世紀初めのフランスを訪ねる。二度の春を見送っての待望の訪日で、三度目の正直となるプログラムをそのまま変えずに弾く。それもまた、ある意味、目移りせずに愛する音楽を深めるラーンキの性格の表れではないか。
東京春祭2022のピアノ・リサイタル全体としては、シューベルトをまんなかに据えて、バッハからハイドン、ベートーヴェンとリスト、ドビュッシーとラフマニノフ、ペルトやリャボフまでの広がりをみせる大きなプログラムが構成される。来たる春、私たちはどのような心で、彼らの多様な音楽を聴くことになるのだろう。
【Information】
■セルゲイ・ババヤン(ピアノ)
2022.3/29(火)19:00 東京文化会館 小ホール
●出演
ピアノ:セルゲイ・ババヤン
●曲目
ペルト:アリーナのために
リスト:バラード 第2番 ロ短調 S.171
J.S.バッハ:《平均律クラヴィーア曲集》 より(抜粋)
リャボフ:幻想曲 ハ短調 op.21 《マリア・ユーディナの思い出に》
ラフマニノフ:
練習曲集《音の絵》 op.39 より 第5曲 変ホ短調
楽興の時 第2番 変ホ短調 op.16-2
楽興の時 第6番 ハ長調 op.16-6
●料金(税込)
S¥6,500 A¥5,000
U-25¥1,500(U-25チケットは2022.2/17(木) 12:00発売)
■アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ)
2022.4/7(木)19:00 東京文化会館 小ホール
●出演
ピアノ:アレクサンドル・メルニコフ
●曲目
シューベルト:
ピアノ・ソナタ 第13番 イ長調 D664
3つのピアノ曲(即興曲) D946
ピアノ・ソナタ 第18番 ト長調 D894
●料金(税込)
S¥6,500 A¥5,000
U-25¥1,500(U-25チケットは2022.2/17(木) 12:00発売)
■アンドレアス・シュタイアー(ピアノ)
2022.4/12(火)19:00 東京文化会館 小ホール
●出演
ピアノ:アンドレアス・シュタイアー
●曲目
シューベルト:
4つの即興曲 D899 より 第1番 ハ短調
楽興の時 D780
ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D960
●料金(税込)
S¥6,500 A¥5,000
U-25¥1,500(U-25チケットは2022.2/17(木) 12:00発売)
■アンドレアス・シュタイアー(ピアノ)&アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ)
2022.4/9(土)18:00 東京文化会館 小ホール
●出演
ピアノ:アンドレアス・シュタイアー、アレクサンドル・メルニコフ
●曲目
シューベルト:
6つの大行進曲 D819 より 第3番 ロ短調
4つのレントラー D814
6つのポロネーズ D824 より 第1番 ニ短調
2つの性格的な行進曲 D886 より 第1番 ハ長調
フランス風の主題によるディヴェルティメント より 第2番 アンダンティーノと変奏 D823
ロンド イ長調 D951
創作主題による8つの変奏曲 変イ長調 D813
幻想曲 ヘ短調 D940
●料金(税込)
S¥8,500 A¥7,000
U-25¥1,500(U-25チケットは2022.2/17(木) 12:00発売)
■デジュー・ラーンキ(ピアノ) 【※公演中止】
2022.4/13(水)19:00 東京文化会館 小ホール
●出演
ピアノ:デジュー・ラーンキ
●曲目
ハイドン:ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 Hob.XVI:46
ドビュッシー:
《映像 第1集》 水の反映、ラモーを讃えて、運動
《映像 第2集》 葉ずえを渡る鐘の音、そして/は廃寺に落ちる、金色の魚
ベートーヴェン:
ピアノ・ソナタ 第24番 嬰ヘ長調 op.78 《テレーゼ》
ピアノ・ソナタ 第15番 ニ長調 op.28 《田園》
●料金(税込)
S¥6,500 A¥5,000
U-25¥1,500(U-25チケットは2022.2/17(木) 12:00発売)
【来場チケット販売窓口】
●東京・春・音楽祭オンライン・チケットサービス(web。要会員登録(無料))
https://www.tokyo-harusai.com/ticket_general/
●東京文化会館チケットサービス(電話・窓口)
TEL:03-5685-0650(オペレーター)
※掲載している公演の最新情報は下記音楽祭公式サイトをご確認ください。