文:岸純信(オペラ研究家)
予想外の手ごたえを多く感じる一年に。まずは、「現代音楽に斬り込む歌声」の目覚ましさ。ソプラノ松島理紗(1月:東京オペラシティ リサイタルシリーズ「B→C」)とソプラノ高橋維(5月:東京オペラシティ 同シリーズ)がそれぞれ委嘱作で聴き手を圧倒し、前者の小倉美春〈ソプラノとピアノのための《澹として…》〉では巫女のトランスのごとく緊張の音景色が展開、後者の稲森安太己〈オスカー・レルケの詩による3つの歌曲〉も無調風ながらトリル、スタッカート、スケールなど声の基本技がちりばめられ、「古代と現代を結ぶ言葉遊び」に聴衆を誘った。両者とも、「初めて接する曲でも、表現の全てを理解できなくても、こんなに面白く、心揺さぶられるとは…」と感嘆しつつ聴き入ったのである。

©大窪道治/提供:東京オペラシティ文化財団

©大窪道治/提供:東京オペラシティ文化財団
この「分からなくても面白い」感覚は、新国立劇場のオペラ《ナターシャ》(細川俊夫作曲、8月)でも味わえたもの。世界初演の新作で「男女の魂の試練」をテーマとしながらも「何より、楽しませよう」という作り手の意欲が露わであり、ハ短調を基調とする聴きやすさのもと、「大掛かりなステージングがもたらすど迫力」が観客を唸らせていた。
なお、現代音楽の現場に触れる一助として、サントリーホール ブルーローズで「現代声楽作品のためのヴォーカル・マスタークラス」が開催(8月:サントリーホール サマーフェスティバル 2025)されたのも収穫の一つ。ソプラノ、ドナシエンヌ・ミシェル=ダンサクの厳しくもユーモア溢れる指導のもと、「楽譜を読み解く楽しさ」がファン層を啓発し、和ませたのである。


撮影:堀田力丸/提供:新国立劇場

撮影:池上直哉/提供:サントリーホール
一方、それとは対極的な古典派やロマン派のオペラで、新星が多く燦めいたのも今年の特長。藤原歌劇団《ラ・トラヴィアータ》(ヴェルディ作曲、9月)の主演ソプラノ、田中絵里加は鋭い声の技とエレガントな所作で観る人の心を掴み、東京二期会《こうもり》(J.シュトラウスⅡ世作曲、11月)のファルケ役のバリトン黒田祐貴*の陰影の濃い歌いぶりも圧巻。神奈川県民ホールと藤沢市民オペラの連携事業 オペラシリーズ《羊飼いの王様》(モーツァルト作曲、11月)ではソプラノ中山美紀がタミーリ役で熱演。指揮者・園田隆一郎の緻密な棒捌きのもと、アリア終盤の込み入ったパッセージを一息で歌いあげ、積み重ねた修練のほどを鮮やかに打ち出していた。
*祐貴の「祐」は正式には旧字体

提供:日本オペラ振興会

撮影:寺司正彦/提供:東京二期会

中山美紀(右)と園田隆一郎(左) 撮影:阿部章仁
外来勢では、ウィーン国立歌劇場来日公演《ばらの騎士》(R.シュトラウス作曲、10月)でゾフィー役のソプラノ、カタリナ・コンラディが目覚ましい出来栄えに。この乙女のキャラクターの計算高さを好まぬ筆者も、コンラディの麗しい声音だと音楽の魅力に素直に浸ることができた。なお、元帥夫人役のソプラノ、カミラ・ニールンドも声に活力あり、有名な三重唱など、オクタヴィアン役のメゾソプラノ、サマンサ・ハンキーの清々しさも寄与して、各自の心の襞が十分に伝わった。また、指揮者フィリップ・ジョルダンの統率力にも賛辞を。終演後の彼の消耗ぶりには驚いたが、過去のマエストロと較べられるプレッシャーを撥ね退ける出来栄えと納得させられた。

カタリナ・コンラディ(中央)、サマンサ・ハンキー(右) ©Kiyonori Hasegawa

©Kiyonori Hasegawa

さて、ここで、違う視点のもと、「2025年望外の喜び」を改めてご紹介。まずは、「スコアを読み直す意義」を明らかにした二つのステージ。東京・春・音楽祭《こうもり》(J.シュトラウスⅡ世作曲、4月)では指揮者ジョナサン・ノットの慧眼のもと、筆者も生では初めて聴く「楽譜通りの《こうもり》」を堪能。作曲者と台本作家が願う「世の融和」の精神が耳に染みとおった。また、リッカルド・ムーティが振ったヴェルディ《シモン・ボッカネグラ》(9月)では歌詞と音符の結びつきがひときわ鮮明になり、楽器の音色の含意 ー 特にバスクラリネットの渋さ ー もじわじわと迫って心奪われた。

《シモン・ボッカネグラ》 ©平舘平

《シモン・ボッカネグラ》 ©平舘平
続いては「マエストロの周到なる差配」が光った公演を。まずはヘンデルの《ロデリンダ》の2つのプロダクション(6月:調布国際音楽祭/指揮は鈴木優人、11月:北とぴあ国際音楽祭/指揮&ヴァイオリンは寺神戸亮)では共に「声選び」が盤石の結果をもたらすものに。両者とも、2人のカウンターテナーの声色の違いが各々の人物像に高い説得力を与えていた。

©藤本崇

photo:team Miura
次に、マスネ《サンドリヨン》(11月:NISSAY OPERA)では、笑わん王子(メゾソプラノ山下裕賀が大熱演)のやるせなさと、継母(メゾソプラノ星由佳子が健闘)のちゃっかりした感を指揮の柴田真郁がテンポの微調整で手堅く支え、ワーグナー《さまよえるオランダ人》(7月:兵庫県立芸術文化センター)では佐渡裕の重厚な音作りのもと、バリトン髙田智宏(オランダ人)とソプラノ田崎尚美(ゼンタ)の剛毅な歌声がより輝く展開に。


山下裕賀(右)と金子紗弓 ©寺司正彦

撮影:飯島隆/提供:兵庫県立芸術文化センター

撮影:飯島隆/提供:兵庫県立芸術文化センター
ブリテン《夏の夜の夢》(8月:セイジ・オザワ 松本フェスティバル)では沖澤のどかの悠揚迫らざる捌きが「音の神秘性」を大きく花開かせ、ソリストのみならず児童合唱から管弦楽まで一致団結の仕上がりに。そして、ベルク《ヴォツェック》(11月:新国立劇場)では大野和士と東京都交響楽団が「集中力の権化」となり、ドラマの悲愴感をより高めていた。
なお、この《夏の夜の夢》と《ヴォツェック》は、共に、日本のオペラ史に残る名演出でもある。前者のロラン・ペリーでは幻想性とコミカルさが高次元で融け合い、後者のリチャード・ジョーンズは、楽譜を弄らずにラディカルな境地を拓いた。このような、手放しで拍手できる瞬間を、これからもどんどん味わってゆきたい!

©山田毅/2025OMF

©大窪道治/2025OMF

写真:堀田力丸/提供:新国立劇場


岸 純信 Suminobu Kishi
オペラ研究家。『ぶらあぼ』ほか音楽雑誌&公演プログラムに寄稿、CD&DVD解説多数。NHK Eテレ『らららクラシック』、NHK-FM『オペラファンタスティカ』に出演多し。著書『オペラは手ごわい』(春秋社)、『オペラのひみつ』(メイツ出版)、訳書『ワーグナーとロッシーニ』『作曲家ビュッセル回想録』『歌の女神と学者たち 上巻』(八千代出版)など。大阪大学非常勤講師(オペラ史)。新国立劇場オペラ専門委員など歴任。
