映画『蜜蜂と遠雷』特集| 藤倉大作曲「春と修羅」楽曲解説

熾烈を極める「芳ヶ江国際ピアノコンクール」の第二次予選。コンテスタントに課題として与えられたのは、演奏時間約9分というコンクールのための新曲「春と修羅」だ(作曲者は菱沼忠明)。映画版ではこの難曲を、気鋭の作曲家である藤倉大が作曲。主役級の4人が個性を際立たせるこの魅力的な作品を簡単ながらご紹介しよう。

text:オヤマダアツシ


コンテスタントの“創造力”が試される難曲「春と修羅」

通常であれば演奏テクニックや音楽性が問われるピアノコンクール。しかしこの曲では、さらに個々の創造性も試される。なにしろ後半に用意されているのは、「自由に、宇宙を感じて」と指示されているカデンツァ(即興演奏)なのだから。ピアニストとしての能力と共に、作曲家としての能力や、約40分というパフォーマンスの中で「春と修羅」をどこに置くかというプログラミング能力(=コンサート全体をどう聴かせるか)も試されてしまうのだ。

それゆえ主役級の4人が弾く「春と修羅」は、同じ曲なのにすべてが個性的。それぞれが自らの演奏テクニックでどこをアピールしたいのかを反映させることもできるし、その演奏からはコンテスタントの理解力だけではなく、音楽に対する姿勢さえも垣間見えてしまう。こんな作品を課題として用意するところに「芳ヶ江国際ピアノコンクール」のシビアさが垣間見えるのである。


インスパイアされた元ネタは宮沢賢治の名詩集

この「春と修羅」という曲名を目にして心を動かされた方は、熱心な宮沢賢治の愛読者だろう(修羅とは仏教における修羅道=戦いの鬼。そして象徴として描かれる阿修羅という守護神)。原作の作曲者である菱沼忠明がインスパイアされたのは、『銀河鉄道の夜』『セロ弾きのゴーシュ』『雨ニモマケズ』など多くの文学作品で有名な宮沢賢治の詩集だ。そこには賢治が暮らした東北の風景や大自然の営み、そこでの生活の喜びや厳しさも描かれ、さらには24歳という若さで天国へと上った2歳下の妹、トシの闘病と臨終についての記述も含まれる。

原作「蜜蜂と遠雷」の装丁画をペイントとした『LovePiano~「蜜蜂と遠雷」ver.~』


先鋭的な作曲家のペンになる映画版の「春と修羅」

映画化された『蜜蜂と遠雷』で「春と修羅」を具体化してくれたのは、世界的に活躍する藤倉大(1977年生)。いわゆる「現代音楽」とカテゴライズされる世界で高い評価を受け、世界中のオーケストラや音楽家たちから新作を依頼されているという“売れっ子”作曲家なのだ。

原作における「春と修羅」は、無調という作曲手法による作品(=ハ長調、ト短調といった調性を持たない自由な音楽)。聴き慣れない人にとっては「難解な音楽」という印象も受けてしまうという危険性もある。藤倉はそこを意識しつつも、4人それぞれのキャラクターや音楽性、演奏のスタイルなどを石川慶監督らとディスカッションをして「春と修羅」の世界を作り上げた。


【動画】「春と修羅」特別映像

曲はとても優しい響きで幕を開け、4分の2拍子、4分の3拍子、4分の4拍子が交錯しながら聴き手を「春と修羅」の世界へと誘ってくれる。甘美な音は徐々に水面が陽光できらきらと輝くような音楽となり、しばらくすると再び静寂で甘美な音楽へ。曲の前半となる82小節目までが楽譜をもとに演奏する部分であり、その後に「カデンツァ」が続く。それぞれが個性的な音楽を披露した後、曲は再びあからじめ楽譜が書かれている部分(44小節分)へ。カデンツァ後の部分をどう弾くか(冷静に戻れるか、カデンツァの気分に引っ張られるか)も聴きどころである。ピアノの鍵盤を幅広く使う激しい音楽が展開され、最後は消え入るように曲を閉じる。


4人それぞれの個性が際立つ「春と修羅」の魅力

あらかじめ記譜された部分でも、自由なカデンツァの部分でも、4人それぞれの個性が聞こえてくる「春と修羅」の演奏。ちょっとした聴きどころをご紹介しよう(文中のタイム表記は大まかなものです)。


栄伝亜夜(演奏:河村尚子)
CD『映画「蜜蜂と遠雷」
〜 河村尚子 plays 栄伝亜夜』

ソニーミュージック
SICC-39031
¥3000+税

指が勝手に「春と修羅」を演奏しているような感覚のまま、自分のそばにいて徐々に大きくなっていく“何か”を強く感じながらカデンツァ(3分55秒あたりから5分15秒あたりまで)へ。叩きつけられる和音。そこで亜夜が気づいたのは、自分を包み込んでくれた亡き母の存在だった。その大きな愛情、母なる大地、自然、その中で生きること、大きな安堵感……。それらが大きな音の流れとなって、亜夜のカデンツァを紡いでいく。


高島明石(演奏:福間洸太朗)

CD『映画「蜜蜂と遠雷」
~福間洸太朗 plays 高島明石』

ナクソス・ジャパン
NYCC-27309
¥3000+税

日本文学LOVERである彼は、カデンツァ(3分10秒あたりから4分55秒あたりまで)の拠り所として、『春と修羅』に所蔵された一編「永訣の朝」に出てくる「あめゆじゅとてちてけんじゃ(雨雪をとってきてちょうだい)」というトシの言葉をモティーフに使った。作曲者の藤倉もこの言葉からメロディを紡ぎ出し、音楽を語るような演奏へと導いている。3分35秒あたりから聞こえる素朴で物思いに耽るように奏でられるメロディが「あめゆじゅとてちてけんじゃ」だ。


マサル・カルロス・レヴィ・アナトール(演奏:金子三勇士)

CD『映画「蜜蜂と遠雷」
~金子三勇士 plays マサル・カルロス・レヴィ・アナトール』

ユニバーサル ミュージック
UCCS-1252
¥3000+税

マサルがイメージの柱としたのは、森羅万象と余白の美。彼はそれを日本特有の「坪庭や茶室」に喩えるのだが、結局は「説明ではなく感じさせること」という思いへたどり着く。そうして創造された彼のカデンツァ(3分50秒あたりから5分5秒あたりまで)は、高難度の演奏テクニックによる密度の濃い音楽であり(激しい鍵盤の連打!)、その中から生まれてくる光や色彩、余白を感じさせるというものだ。

風間塵(演奏:藤田真央)
CD『映画「蜜蜂と遠雷」
〜 藤田真央 plays 風間 塵』

ナクソス・ジャパン
NYCC-27310
¥3000+税

カデンツァ(3分10秒あたりから5分00秒あたりまで)が何の前触れもなく嵐のように始まり、激しい感情が渦巻く音楽が展開されていく。藤倉が楽譜に指定したのはsfz=スフォルツァンド(特に強く弾く)を3倍増しにしたsfffz。さらにはfff(フォルティッシッシモ)とp(ピアノ)をジェットコースターのように行き来する音楽。なにがこの少年をここまで駆り立てるのか、なにが彼にこの音楽を弾かせるのか。もしかすると「修羅の道の極み」なのかもしれない。

なお、映画の公開と時を同じくして、10月4日にはカワイ音楽出版より楽譜が発売される。ぜひ皆様も自分だけの「春と修羅」を。


Information
映画『蜜蜂と遠雷』
2019.10/4(金)全国公開

原作:恩田 陸「蜜蜂と遠雷」(幻冬舎文庫)
監督・脚本・編集:石川 慶
出演:松岡茉優、松坂桃李、森崎ウィン、鈴鹿央士(新人)
配給:東宝
Ⓒ2019 映画「蜜蜂と遠雷」製作委員会
https://mitsubachi-enrai-movie.jp/


楽譜
『春と修羅 Spring and Asura for piano
~映画「蜜蜂と遠雷」より~』

カワイ出版
¥1600+税


TV
NHKEテレ『ららら♪クラシック「feat.蜜蜂と遠雷」』
10/4(金) 21:00 ~21:29

2017年直木賞・本屋大賞を史上初W受賞した話題作「蜜蜂と遠雷」がこの秋ついに映画化!主人公・栄伝亜夜を演じた俳優・松岡茉優さんとその演奏を担当したピアニスト・河村尚子さんをゲストに迎え、撮影の裏話や、ピアニストと役者の相乗効果について語ります。メインキャラクターの演奏を担当したのは、いずれも一流ピアニストたち。普段は役を意識して演奏することのない彼らは”音楽“で役柄をどう表現したのか?また劇中オリジナル曲「春と修羅」を作曲した藤倉大さんがテレビ電話出演し、その誕生秘話を語ります。さらに、河村尚子さんが「春と修羅」をテレビで初披露します!