河村尚子(ピアノ)インタビュー

interview & text:オヤマダアツシ

はてしなく弾き手も聴き手も魅了し続け、まだこんな可能性があったのか! という驚きさえ提示してくれるベートーヴェンのピアノ・ソナタ。14曲をセレクトしたコンサート・シリーズ(全4回)と、さらに曲をセレクトした録音が注目を集めている河村尚子。シューマンやショパンほか、クラシック・ピアノの王道作品といえるレパートリーを刷新する一方で、ここ数年は矢代秋雄の協奏曲やバーンスタインの交響曲第2番「不安の時代」などを披露し、新境地を開拓している。

この秋は話題の映画『蜜蜂と遠雷』で、主人公の一人である栄伝亜夜(演じるのは松岡茉優)の演奏を担当。「人生、楽しくないと!」という彼女に、映画のことやベートーヴェンのことなどを訊いた。

C)Marco Borggreve



コンクールのときに不安を感じる状況など
亜夜に共感した部分はたくさんありました

──映画『蜜蜂と遠雷』をご覧になっていかがでしたか。

私が関わったのはまだ撮影が始まる前で、劇中で流れる音源の録音を先にしたのですが、藤倉大さんが作曲した「春と修羅」の録音と、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番を録音した際には、栄伝亜夜役の松岡茉優さんとマサル役の森崎ウィンさんが見学にいらして、演技の練習や役作りの参考にされたとうかがいました。その時点では原作を拝読した段階でしたけれど、映画の試写を拝見してとても素晴らしい作品になったなと思います。

──栄伝亜夜と河村さんとの共通点はありましたか。

演奏を亜夜のイメージに寄せるということはなかったのですが、共通する部分はあるなと感じていました。たとえば自然な雰囲気を大切にして感覚的な演奏をするところや、無理なく子どもの時代へ戻れてしまうところなど、きっと彼女は素直に、柔軟に生きているのだろうなと思います。

──河村さんご自身も音楽コンクールを受けた経験はおありですが、登場するキャラクターの中ではどのタイプでしたか。

そうですね…。やっぱり亜夜でしょうか。コンクールのときも、上手く弾けなかったらどうしようとか、お客さんはどういう反応を示してくれるだろうとか、いろいろな不安を抱えながらステージへ出て行きますが、ステージに立ったらどんな不安も取り去って演奏しなければいけません。そういう不安の描き方を観ながら、「そういえば私もそうだったな」と思ってしまいました。
映画の中で風間塵が亜夜に向かって「世界中でたった一人になってもピアノに向かっている。おねえさんはどう?」と尋ねるシーンがありますが、観た後で「私はどうだろう」と考えましたね。
今、ドイツのエッセンにある芸術大学では生徒を8人もっているのですけれど、コンクールを受ける子もいますし、いろいろなタイプの子たちをどうすれば助けてあげられるのかと考えたり、映画を観ながらちょっと身につまされることもありました。

──エッセンでの河村先生のレッスンは厳しいのでしょうか。

あ、たぶん厳しいと思います。もちろんフレンドリーな部分とのバランスやけじめは大事にしていますよ。私は両親が日本人ですし、小学校6年生の1学期までは日本人学校に通っていましたから、日本人のメンタリティを受け継いでいます。ドイツに住んで長くなりますが、住めば住むほど日本的な部分が自分の中に見つかりますし、それを意識してアピールしていきたいと思うこともありますね。演奏にもそういった意識は反映されているのかもしれません。

C)Marco Borggreve


楽しく新鮮な気持ちで弾けるような気がして
ベートーヴェンへ取り組んでいます

──ベートーヴェンのピアノ・ソナタ録音は、2019年4月にリリースされた第1弾(月光、悲愴ほか)に続き、10月に第2弾がリリースされます。一方で18年から19年にかけ全4回のコンサート・シリーズが進行中であり、全32曲中14曲を演奏されます。

ベートーヴェンのソナタは、もちろん子どもの頃からレッスンで弾くこともありましたが、実を言いますとあまり得意な作曲家ではないという意識があったのです。あらためて取り組んでみようと思ったのは、この5年〜7年くらいのことですね。

──なにか、そう思えるきっかけがあったのでしょうか。

学生時代に先生から言われたことや、こう弾かなくてはならないといった固定観念を抱え続けていたのですが、時間がたつにつれ楽譜を読み解いていく能力が高まってくると、こう弾いたら楽しいんじゃないか、新鮮なんじゃないかという思いが芽生えてきたのです。フレージングや強弱、間のとり方などあらゆる面をもう一度見つめ直してみたら、音楽全体の雰囲気も変わるなということに気づき、なんだかベートーヴェンの音楽が楽しく思えてきました。今回の選曲は、まず自分が弾きたい曲や興味を抱いた曲、自分に合っていると思える曲を軸に、お客様に喜んでいただけるであろう人気の高い曲も加えています。

──ベートーヴェンの音楽、特にピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲などは、ある時代まで精神論と抱き合わせになっている印象も強かったと思いますから、楽しさに活路を見出したのは新鮮ですね。

もちろん厳格な面もありますし、弾きやすい曲ばかりではないので苦労する部分もあります。ベートーヴェン自身がピアニストでしたから「自分はこんなに弾けるんだぞ」とアピールもしたかったでしょうし、後期のソナタになってくると今度は耳が聞こえないという事情もあったのか、勉強机の上で作ったなと思える曲も出てきます。技巧的には弾けるけれど、音は決して美しくないとか、その時代によっての変化が見られますね。そういったことを踏まえつつ、やはり私としては音楽を楽しみたいですし、曲に対するアプローチも変わってくると思うのです。人生はやはり楽しまないと!

──「人生を楽しまないと」は河村さんのモットーでしょうか。

そうですね。日本人ですから「やっぱり働かないと」という部分もありますし、好きな音楽を仕事にできているのは幸せですが、何のために働くのかと考えると、やはり遊ぶときの楽しみを味わうためだなと思うのです。

──となると、今の楽しみは何ですか。

ガーデニングですね。庭にきゅうりやカボチャを植えて、今年はそこで過ごすのが癒やしの時間です。育ててかわいがって、収穫したら糠につけて。そういう時間が、いま楽しくて仕方ありません。音楽はある程度まで練習した時間や密度がものをいいますけれど、技術的に手の内へ入ってしまってからは、日常的な自分の状態が反映されますから、今の自分が弾くベートーヴェンは楽しさがやや多めかなと思います。

──CDの第2弾に収録されたソナタの中ですと、変ホ長調のソナタ(第18番)が特に「楽しめるベートーヴェン」という印象ですね。

明るく楽しいキャラクターで、オペラ・ブッファみたいなイメージですよね。物語もあって、いろいろな俳優が次から次へと登場してくるみたいに。1枚目のCDに収録した作品10の3(第7番ニ長調)も、ノリの良さや潑剌としてヴィヴィッドな感じが好きです。それでいて悲愴的な第2楽章とのコントラストもいいですし。

──今回はほかにも「ワルトシュタイン」「テレーゼ」「熱情」という、それぞれに個性的な曲が収録されています。

技巧的には難しい曲が並びましたね。人を驚かせるような部分も多く、たとえば「熱情」の第1楽章はまず忍び足で近づいてくるように始まりますが、突然フォルテッシモでうわぁーーっと叫ぶようになるなど、そういったハプニング的なところはベートーヴェンらしい部分かもしれません。楽譜の中に隠されている山あり谷ありの感情表現も読み解き、きちんと出していきたいと思います。同時期に書かれた交響曲や弦楽四重奏曲などを聴いて、ピアノではない楽器の音色や表情などをヒントにすることも必要でしょうね。ベートーヴェンの曲ってピアノ・ソナタに限らずすべてが個性的ですし、同じ色がありません。どれもが孤立していると言ってもいいでしょう。そのあり方をどう表現していくか、作品同士のつながりはないのか、あるとすればどう表現していくかなど、一度面白くなってしまうと抜けることができないのも、ベートーヴェンらしいのかなと思います。


profile
河村尚子(Hisako Kawamura)

ミュンヘン国際コンクール第2位、クララ・ハスキル国際コンクール優勝。ドイツを拠点に、リサイタルのほか、ウィーン響、バイエルン放送響などにもソリストとして客演。日本ではP.ヤルヴィ指揮N響など国内主要オーケストラとの共演や、ヤノフスキ指揮ベルリン放送響、ビエロフラーヴェク指揮チェコ・フィル等の日本ツアーにも参加。文化庁芸術選奨文部科学大臣新人賞ほか受賞多数。レコーディングは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「熱情」等を収めた最新譜が10月2日に発売予定(RCA Red Seal)。現在、ドイツのフォルクヴァング芸術大学教授。
オフィシャルHP http://www.hisakokawamura.com/

Information

河村尚子 ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ・プロジェクト Vol.4
2019.11/13(水)19:00 紀尾井ホール
問:ジャパン・アーツぴあ0570-00-1212

https://www.japanarts.co.jp/
※全国公演の詳細は上記ウェブサイトでご確認ください。

CD『ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集(2)
熱情&ワルトシュタイン』

ソニーミュージック
SICC-1904(SACDハイブリッド盤)
¥3000+税
2019.10/2(水)発売

CD『映画「蜜蜂と遠雷」
〜 河村尚子 plays 栄伝亜夜』

ソニーミュージック
SICC-39031
¥3000+税


映画『蜜蜂と遠雷』
2019.10/4(金)公開

原作:恩田 陸『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎文庫)
監督・脚本・編集:石川 慶(『愚行録』)
出演:松岡茉優、松坂桃李、森崎ウィン、鈴鹿央士 他
配給:東宝
Ⓒ2019映画「蜜蜂と遠雷」製作委員会
https://mitsubachi-enrai-movie.jp/