村上明美(ピアノ) from ミュンヘン(ドイツ)
海の向こうの音楽家 vol.5

ぶらあぼONLINE新コーナー:海の向こうの音楽家
テレビなどで海外オケのコンサートを見ていると「あれ、このひと日本人かな?」と思うことがよくありますよね。国内ではあまり名前を知られていなくとも、海外を拠点に活動する音楽家はたくさんいます。勝手が違う異国の地で、生活に不自由を感じることもたくさんあるはず。でもすベては芸術のため。このコーナーでは、そんな海外で暮らし、活動に打ち込む芸術家のリアルをご紹介していきます。
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 第5回は、ミュンヘン在住で特に歌曲ピアニストとして、アンゲリカ・キルヒシュラーガーら著名なアーティストとの共演も多い村上明美さん。歌曲伴奏との出会いから、ピアニストから見たリートの世界の魅力、そして最近の演奏活動まで、たっぷりとレポートしていただきました。

文・写真提供:村上明美

 ふと手にした一冊の本が人の道を決める。 小説のようなことがまさか自分自身に起きるとは、その時想像すらしなかったのです。

Akemi Murakami

 小さな頃よりピアノが好きだった私は兵庫県に育ち、兵庫県立西宮高校、その後、京都市芸術大学へと進学しました。両親は音楽家ではありませんでしたが、母のサポートのもと大好きなピアノを続けていました。しかし、高校時代に母が闘病生活の後他界したことをきっかけに、音楽と私の関係は次第に内面性を求めるように変化していきました。素晴らしいピアノの先生方にも恵まれ、希望の音楽大学で学んでいましたが、音楽が楽しいからやり続ける、というだけでは自分を支えられない現実がありました。母の死から人生の尊さを目の当たりにしたことも、当時様々な問いかけをもたらしました。どうして音楽をするのか、どの音楽が私の人生をかけてしたい音楽なのか、そもそも私の人生はどこにあるのかと。

 そんな時、偶然に大学の図書館で手に取ったのが、後に私のミュンヘン国立音楽大学での師となったヘルムート・ドイチュ氏の著書『伴奏の芸術』。運命でした。 そしてこの本を読んだ時に、歌曲の世界が結ぶ、多くの親密性にとても惹かれ、心の暗闇に光が差すような感覚を受けました。音楽は、世界共通語と言われますし、決しておしゃべりが得意でない私は、子供の頃からピアノを通して自分の世界を持てることを幸せに感じていました。でも、本当に深い悲しみの中にいるときや、自分にはうまく表現できない気持ちを言語化したいときなど、やはり言葉というものに導かれるところにしかない親密性や精神、真実があるのも事実だと思います。 そして当時私は、素晴らしい詩と音楽とが結びついたときにもたらされる心理の具体性、芸術性の高さに、とても興味を持ったのでした。

“人の心から溢れる歌よ!
もしおまえたちがなければ、ああ、悪しき時
何が心に喜びを満たしてくれるだろう”

 このフレーズは、シューマンが「ケルナーの詩による12の歌曲」作品35のうち、9番目に作曲した「問いかけ」の一節です。歌曲ピアニストとしてこれまで様々な詩と歌曲に触れているなかで、人生の様々な局面で心を掴まれ、慰められ励まされ、心豊かにしてもらえました。 ケルナーのこの詩と、楽譜にして1ページのシューマンの小さなこの歌曲にも、私はこのパンデミックでの長いロックダウン中、力づけられました。

 ドイツに暮らすようになり今年で14年。フライブルク、ミュンヘン音楽大学で研鑽後、現在フリーランスピアニストとしてミュンヘンを拠点に活動しています。ヨーロッパ各地で、歌曲・室内楽リサイタルを行うほか、歌曲ピアニストとして、ミュンヘン王宮内ホールでの歌曲演奏会シリーズ「LIEDERLEBEN」の音楽監督を務め、今年で5年目を迎えました。これまで、ヨーロッパの歌曲界を代表する若手歌手をゲストに、ユリアン・プレガルディエン、リュディア・トイシャー、ダニエル・ベーレ、マヌエル・ヴァルザー等と歌曲リサイタルを行ってきました。

 LIEDERLEBENは、歌曲の本当の素晴らしさをお客様と演奏会で共有できること、そしてその高いクオリティーと精神とともに、歌曲という芸術文化が今後も愛され、生き続けていくことをモットーとしています。 これまで、多くの素晴らしい音楽仲間、演奏会運営チームの方、ピアノをご提供くださる工房の方、演奏会収録をご提供いただくTEAC株式会社、バイエルン放送局や、南ドイツ新聞、地元紙、個人支援してくださる方等本当に色々な方にサポートいただき、今やミュンヘンのこの演奏会のためにドイツ国内各地、またはヨーロッパ各地の歌曲ファンの方にもご来場いただけるシリーズへと育ってきました。

LIEDERLEBENでのダニエル・ベーレとの「水車小屋の娘」公演より

 ミュンヘンは、ドイツでベルリン、ハンブルクに次いで3番目に大きな都市です。ミュンヘン・フィル、バイエルン国立歌劇場、バイエルン放送響をはじめとした素晴らしい公演が溢れる他、多くの世界的なトップアーティストが演奏に訪れる街。そうした街で、そしてドイツ歌曲の本場の国で、私が日本人歌曲ピアニストとして、しかもとても親密ではあるけれど、瞬発的なショーイベントのような要素を持たない歌曲というジャンルで、新たなプロジェクトを立ち上げることは、とても勇気がいりました。心配のため、周囲から反対をされることも多々ありました。

左側はレジデンツ。ミュンヘン放送響の定期演奏会場でもあります。
右側には、王宮庭園が広がります。

 でも、渡欧以来、音楽の本場であるヨーロッパ、素晴らしい芸術歌曲を生んだ国々、オーストリア、ドイツでの歌曲演奏会のケアが十分でないことに疑問を持っていました。歌曲を愛する、才能ある若手音楽家はたくさんいるのに、お客様と結びつく場が少ないというのは、なんと残念なことでしょう。「情熱のある者が、理想を追い求め形にし、表現を続けていく」ことは、私にとって一(いち)アーティストとしての姿勢だと思います。不安より強い思いが勝り、こうして私はミュンヘンでの演奏会シリーズを始めるに至ったのでした。

 私は、もう長年歌曲というジャンルに魅了されています。それは、最も親密にゆっくりと音楽作品を味わい、シンプルな美しさと偽りのない芸術価値に耳と心を傾けることができる世界です。詩人は、ゲーテ、シラー、ハイネ、アイヒェンドルフ、ケルナー、リュッケルト、メーリケ、作曲家はシューベルトに始まり、シューマン、ブラームス、ヴォルフ、マーラー、シュトラウスなどが一般的に歌曲分野では人気でしょうか。具体的な作品例をとると、シューベルトの三大歌曲「水車小屋の娘」「冬の旅」「白鳥の歌」、シューマンの「ミルテの花」「詩人の恋」「リーダークライス」「女の愛と生涯」、ブラームスの「民謡歌曲集」「マゲローネによるロマンス」、ヴォルフの「メーリケ歌曲集」「イタリア歌曲集」、マーラーの「子供の不思議な角笛」「リュッケルト歌曲集」、シュトラウスの作品10など、日本でも演奏会で取り上げられることが多いと思います。もしも、初めてこれらを耳にされる方がいらっしゃれば、ぜひこの機会に翻訳を片手にご一聴いただければ嬉しいです。

 歌曲は、シンプルで直接的なものから、時に皮肉や暗喩を通して、またひそやかに、そして激しく音楽表現されます。上記には連作歌曲を主に挙げましたが、単曲で完成する素晴らしい歌曲作品が多くあります。どの小さな歌曲にも、時代を反映した政治的思想、人間の普遍的な憧れや愛の表現、それに伴う痛み、人生でのさすらいや孤独との向き合い、そして慰めや救い、希望についても深く感じることができます。一般的に、一曲の長さが1分足らずのものから、長くて5分という短い作品の中に、作曲家のこだわりと想いが凝縮されているのです。

 長く壮大な交響曲や、多くのピアノソナタ、オペラを書いた多くの作曲家たちが、歌曲作品にも多くの名作を残しています。私はこれらの作品から、彼らのプライベートを覗き見るような親近感を覚えます。歌曲作品の中で出会う彼らは、エゴイズムや虚栄を感じさせることなく、歌曲を彼らの心の日記として、心震えるまま作曲したのだと感じることが多くあります。 そして、そのピュアな音楽は小さいながらとても存在感のあるもので、私はこれまで数え切れないほどの歌曲から、人生へのエネルギーとインスピレーションを受けてきました。ドイツ語が全くわからずに始めた、私の歌曲との旅は、私の人生をとても豊かに幸せなものとしてくれ、今に至っています。

カウンターテナーのヴァレア・サバドゥスとのビデオ撮影中の一コマ

 また、人の声が演奏パートナーの楽器となることも、音楽的に、心理的にとても親密で歌曲ピアニストの仕事の醍醐味の一つでもあります。歌曲上で詩と音楽が対等なように、歌手とピアニストが対等に音楽を奏でる時、最高の演奏が生まれます。シンプルで、決してヴィルトゥオージティを追求した作品のように音の多い世界ではないので、フレーズや和音をファンタジーや解釈を通して演奏することによって、初めて音楽が輝きを放ちます。簡単に形になるようで、本当の魅力を持たせ、演奏パートナーと自由に舞台で表現できるまでは、熟成期間が必要な仕事だと思います。

 経験を積むにつれ、作曲家の意図が早く楽譜から読み取れるようになり、またパートナー歌手との呼吸と心を一つにできた時には、舞台ではさらにインスピレーションにみちた、スリリングで特別に親密な世界観に到達できます。それをお客様と演奏会場で共有できる時は、私にとって最も幸せな時間です。

 演奏プログラムを主催者からのリクエストなしに自由に構成できる場合、私は歌手のパーソナリティーと声の素晴らしさが最も強く反映できる選曲にこだわります。歌手とピアニストが対等な舞台といえど、言葉を操る歌手の声と心が音楽にリンクしていることが、良い舞台の最高の鍵となると思うからです。歌手とともに選曲をしたり、歌手の人間性からインスピレーションを受けてプログラムを提案することは、本当に楽しい作業です。一つの演奏会では、20〜25曲ほどの歌曲が演奏されます。演奏のテーマや、曲想、曲間によるニュアンスや調性に変化をつけながら感情のクライマックスを構成していきます。

 美味しいお鮨屋さんで、おまかせのコースをいただく時にも、プログラム作成の多くのインスピレーションを受けます(笑)。シンプルな素材を最高の状態で組み合わせ、丁寧に仕上げられた一つひとつのお寿司が職人さんのこだわりにより、おすすめの順番で提供されます。並びには、伝統を感じさせる安心感もあれば、たまには個性を感じさせる驚きもあり、感動のピークもあり…。同じように、一曲一曲が完成された表現を持ちながら、はじめから終わりまでトータルの構成で、本当に素敵な夕べだったなぁとしみじみと感じ、お客様に幸せな気持ちになっていただきたいと私はプログラム構成の際、常々思っています。

イルカー・アルカユーリックとの演奏会より

 共演は、トルコ生まれ、ウィーン育ちの新進気鋭のテノール歌手、イルカー・アルカユーリック。歌曲歌手としてもヨーロッパで評価が高く、叙情性の高い美声を持ち、感情豊かで、温かい人柄が伝わる音楽が彼の魅力です。ウィーン育ちを匂わせるちょっとした自由なフレーズ感も特徴でしょうか。

 演奏会当日、お客様の拍手に迎えられ舞台に戻った時、私たちは本当に喜びに満ちた思いでした。この日は、私たちはベートーヴェンの連作歌曲「遥かなる恋人へ」、マーラーの「さすらう若人」、そしてシューマンのケルナーの詩による歌曲集を取り上げました。ベートーヴェンのこの作品は、難聴が進み彼がスランプにいる中書かれたものとは思えないほど、素晴らしく愛と憧れに満ちています。音楽史上初の連作歌曲の完成度は非常に高く、ベートーヴェン特有の緻密なテンポ設定を徹底的に解釈と表現に結びつける面白さもありました。マーラーの歌曲は、オーケストラで聴かれることも多いのですが、アルカユーリックとはピアニストとしてぜひ共演したいプログラムでした。演奏していて、さすらう若人の感情や彼の置かれる情景が、音楽を通して私にはカラフルな映画の映像を描くように目前に浮き上がってくる気がします。シューマンのケルナーの歌曲作品は、力強くかつ繊細で、若さ溢れるみずみずしい作品が魅力です。シューマンは父親から文学的才能を譲り受け、歌曲作曲の際には優れた詩を選んでいます。ピアニストとして、作曲家としての彼の才能も、歌曲分野で実を結び素晴らしい作品が数多く残ります。この作品は、ゆっくり音楽と詩を味わいたい時にとてもお勧めです。

 この演奏会は、TEAC株式会社のサポートにより、TASCAMブランドの商品の録音機器とともに最高音質でビデオ撮影をご提供いただきました。ロックダウン中、多くのデジタルコンサートが配信され、多くの人がライブ演奏会のかけがえのなさを身にしみて感じたことと思います。しかし、この公演は、私たちにとってようやくお客様の前で演奏ができることが実現した瞬間の公演映像で、私には特別な思いのある演奏会です。海の向こうの音楽会、ぜひ皆様にご覧いただければ幸いです。

 8月1日の公演では、直前にいろいろな変更がありました。共演予定のソプラノ歌手、アンナ・エル・カシェムが急病のため公演1週間前にキャンセルとなりました。そして、さまざまな手配の後、私がとても信頼をしてこれまで何度も共演を重ねてきているバリトン歌手マヌエル・ヴァルザーをゲストに迎えての公演となりました。現在フリーランスとして活躍する彼は、これまで多くの国際声楽コンクールで優勝を果たし、25歳にしてウィーン国立歌劇場の専属歌手に抜擢されました。ザルツブルク音楽祭、ルツェルン音楽祭、パリ・フィルハーモニー、ロンドン・ウィグモアホールでの歌曲演奏会に招待されてきた若手実力派歌手です。彼の柔らかく深みのある素晴らしい美声もともかく、彼の最大の魅力はシンプルでありながら、ピュアで情熱的な、音楽表現にあります。飾らないありのままの自分を音楽のなかで表現する彼の強さと勇気は、いつも聴衆の心を惹きつけます。いかに楽譜に忠実に、歌詞と音楽を体と心に落とし込み、二人で舞台上で信頼とともに自由になるか ── それが私たちがデュオとして舞台に立つ際の絆だと感じます。スイスに住む彼とは、パンデミック中、国境閉鎖により以前のように簡単にリハーサルができない時期を過ごしましたが、こうして急な演奏会の共演でも、築き上げてきたデュオとしてのクオリティがあると実感できることは、とても幸せな経験でした。

マヌエル・ヴァルザーとの演奏会より

 お客様に、一番今とどけたいプログラムを、ということで私たちは「憧れ」をテーマにシューベルトの歌曲を選び演奏しました。この公演は、幸いにもバイエルン放送局がラジオ放送用に収録してくれました。放送は、日本時間の9月11日22時5分より以下のリンクでお聴きいただけます。

マヌエル・ヴァルザーとは9月半ばに、CD録音も予定しています。

 10月には、シュトゥットガルトのフーゴ・ヴォルフ・アカデミーの歌曲音楽祭にて、バリトンのヨハネス・カムラーと、ゴルドムント・クァルテットの二人のメンバーとピアノトリオの編成で招待されています。11月には、音楽的に人間的にもメンターとして私が大変尊敬しているメゾソプラノのアンゲリカ・キルヒシュラーガーさんとハンブルク近郊で共演します。来年には、カウンターテナーのヴァレア・サバドゥス、テノールのダニエル・ベーレ、または私の運命を変えた恩師であるヘルムート・ドイチュ氏との4手での公演も予定されています。サバドゥスとの演奏映像は、YouTubeにてご覧いただけます。

 まだまだ大変な時代ですが、これまでの多くの素晴らしい人々や音楽との出会いにとても感謝しています。コロナ禍にて、簡単に帰国が難しい今、日本がこれまでよりも遠く感じることがあります。故郷への憧れが強くなるということは、寂しくもあり素敵なことだとも思います。それは自分にとって、それがとても大切な場所だということが実感できるからです。次回、日本の演奏会場で皆様と再会できる日が本当に今から楽しみです。 私の大好きな音楽仲間と、これからも歌曲文化を皆様とともに、未来につないでいくこと。どこの国にいても自分らしく、音楽とともに私の人生があることを幸せに思います。皆様のお身体と心がこれからも健康でありますように!

村上明美(ピアノ)

(c) Shirley Suarez

 村上明美は今日最も注目すべき、歌曲・室内楽ピアニストである。
 兵庫県出身。3歳よりバレエ、4歳よりピアノを始める。京都市立芸術大学で学んだ後、フライブルク音楽大学、ミュンヘン音楽・演劇大学にて修了。田隅靖子、坂井千春、フェリックス・ゴットリープ、ヘルムート・ドイチュ各氏に師事。ヨーロッパで数々の重要な音楽祭に出演他、ベルリン・コンツェルトハウス、ミュンヘン・プリンツレーゲンテン劇場、ガスタイク、バイロイト辺境伯歌劇場、フランス・リール歌劇場等での演奏会で高評を博す。2022年にはバルセロナのカタルーニャ音楽堂、MDR音楽の夏での歌曲演奏会出演が予定されている。演奏活動は、その他スイス、イタリア、イギリスでも行われている。
 日本国内では2018年『サントリー1万人の第九』、2019年『音舞台』(MBS)のゲストとして、 ベンヤミン・アップルと出演した他、住友生命いずみホール、京都コンサートホールの主催コンサートに招聘される。 アンゲリカ・キルヒシュラーガー、ダニエル・ベーレ、トーマス・バウワー、中嶋彰子、ベンヤミン・アップル、ユリアン・プレガルディエン、マヌエル・ヴァルザー等と共演し、多くの国際的歌手から信頼を集める。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団オーボエ奏者クリストフ ・ハルトマン、バイエルン国立管弦楽団ホルン奏者クリスティアン・ローファラー等と室内楽で共演。 アンドレアス・ブルクハルトとのCD『ゲーテ歌曲集』をリリース。ミュンヘン国際音楽コンクール声楽部門の公式ピアニスト。また、ミュンヘン宮殿とニュンフェンブル城で開催される歌曲演奏会シリーズ「LIEDERLEBEN」の芸術監督を務めている。ミュンヘン在住。
http://www.akemi-murakami.com