伊藤 恵(ピアノ)

円熟の時を迎え、今ベートーヴェンの後期ソナタと向き合う

©大杉隼平

 20年かけてシューマンのピアノ曲全曲を弾き、さらにそのあと約10年間シューベルトに取り組んできた伊藤恵が、現在あらためて向き合っているのがベートーヴェンのピアノ・ソナタだ。CDのリリースと並行して、昨年からベートーヴェンを中心とする年1回のリサイタル・シリーズ「春をはこぶコンサート ふたたび」(全8回)を始動。4月、シリーズ第2回は、「ピアノ・ソナタ第30番 op.109」と、「第32番 op.111」の後期ソナタ2曲が軸となる。
「ベートーヴェンが亡くなった年齢を超えて、ようやくベートーヴェンを弾くことが許されるかなと思ってスタートしました。私も人生の秋から冬をどう過ごすかということは大きな課題。今回は、いままでできなかったことに挑戦したいと思い、人前で弾くのはほぼ初めてのop.111を選びました」

 このベートーヴェン最後のソナタを、愛と優しさだと語る。
「第2楽章の静かな美しさ。不屈の人だと思い込んでいたベートーヴェンの『諦念』を、初めて感じています。『もうこれでいいんだ』という諦めと、すべてを受け入れる愛。弾いている私にも『それでいいんだよ』と肯定してくれる優しさがある。生きていくことの大変さを受け入れる勇気をくれる音楽です」

 対照的に、op.109は18歳の頃から何度も弾いてきた。
「面白いことに、長い間弾いている作品を、現在の自分の新しい解釈にするのは難しいんですね。過去をまったく否定してしまうのもちょっと残念だけれど、いや、でも本当にそれでいいのか? という迷いと葛藤。自分との戦いですね。直観的な若い感性と、もっと深い表現のための感性とを、両方持っていくというのは、なかなか大変なことです」

 年齢と経験を重ね、その両方を考えることができる現在の伊藤だからこその、深く変化に富んだ表現が紡がれるはずだ。
 そのベートーヴェンと組み合わせたのは「音楽が大好きだった父が常に口ずさんでいた、個人的に特別な曲」というブラームスの「3つの間奏曲 op.117」。ライフワークとする作曲家シューマンの〈予言の鳥〉(森の情景)は、「現代のピアノ、未来の音を予言したかのようなベートーヴェン」へのオマージュでもある。そして「まるでドイツ音楽。精神的で、娯楽性のかけらもない。ベートーヴェンと対峙するのと似た感覚」と敬愛する細川俊夫の小品「エチュードⅥ -歌、リート-」。
 音楽の性格的な調和はもちろん、変ホ長調のブラームスからハ短調のop.111まで、調性の移ろいも加味した、巧みなプログラムだ。
取材・文:宮本 明
(ぶらあぼ2019年4月号より)

伊藤 恵 ピアノ・リサイタル
春をはこぶコンサート ふたたび 「ベートーヴェンの作品を中心に」Vol.2
2019.4/29(月・祝)14:00 紀尾井ホール
問:カジモト・イープラス0570-06-9960 
http://www.kajimotomusic.com/