進化&深化を続けるスーパー・テノール
グレゴリー・クンデの奇跡の歌唱を堪能する

グレゴリー・クンデ

文:香原斗志

衰えずに深みだけが増していく

 グレゴリー・クンデはこれまでに3回、日本でヴェルディ《オテロ》の題名役を歌っている。2013年に行われたヴェネツィアのフェニーチェ劇場の日本公演が最初で、次が19年開催の英国ロイヤル・オペラ日本公演。23年は、チョン・ミョンフンが指揮した東京フィルハーモニー交響楽団による演奏会形式の上演だった。

 いうまでもなくオテロ役は、テノールにとって、もっとも過酷な役の一つである。軽い声の歌手には到底歌いこなせないが、劇的な声の持ち主も声を押し出すことに終始して、この心理劇を深められないことが多い。ところが、クンデは声の強弱を自在にコントロールし、ニュアンスを細やかに加えて、オテロの怒りや苦悩を、聴き手が胸を詰まらせるくらいに表現した。

 だが、それ以上に驚かされたのは、聴くたびに深化していることだった。最初の2013年にクンデはすでに59歳で、19年には65歳、23年には69歳になっていた。歌手によっては急速に声が衰える年齢だが、クンデの声はまるで衰えないまま、表現の深みだけが増していったのである。

 筆者は23年4月、ローマ歌劇場でのプッチーニ《外套》で、クンデが20歳の若者であるルイージ役を歌うのを聴いた。正直に打ち明ければ、さすがに70歳近い年齢で歌うのは厳しいと想像していた。ところが、あまりにも若々しい歌唱に度肝を抜かれ、某誌に公演評を掲載すると同時に、3ヵ月後の東京フィルの《オテロ》も大いに期待できると書いた。

 むろん、その《オテロ》もすばらしかったのだが、それからさらに半年経った23年12月に、イタリアのピアチェンツァで聴いた《オテロ》は、東京フィルの公演を上回る声の響きと迫力だった。

 いまのクンデを聴くたびに、奇跡が起きているとしか思えない。それほど常識のレベルを超越していると言ってもいい。そんな歌手がサントリーホールで、オペラの名アリアからジャズやオールディーズまでを披露する、たった一夜だけのコンサートを開催してくれるのである。

(c)Chris Gloag

偉大なるテノール、アルフレード・クラウスの教え

 今年8月、クンデに「どうして、いつまでも輝かしい声で歌えるのか?」と尋ねると、即座に「わからないね(笑)」と言いながら、こう答えた。
「46年前、キャリアの初期にシカゴで大テノールのアルフレード・クラウスのもとで勉強する機会があって、彼は私にこう言ったんです。『時間をかけなければいけないし、落ち着いて、できるかぎり前に進みすぎないようにしなければならない』。その教えを守って50歳になったとき、声が自然に変わってきました。張りつめた声になり、それまで軽めのベルカント・オペラが中心だったレパートリーを、ベルリオーズや初期のヴェルディ、あるいはロッシーニでも、バリトンのような声質のバリテノールが歌う役に変えていったんです」

 ロッシーニなら《セミラーミデ》のイドレーノ役などでの優美な歌唱に特徴があったクンデが、2007年に伊ペーザロで、バリテノールが歌う劇的な役である《オテロ》の題名役を、音圧が強い声で力強く歌うのを聴いて、かなり驚いた。しかし、変化はそれにとどまらず、次第にベルカント・オペラを卒業し、ヴェルディやプッチーニ、またはヴェリズモ・オペラなどの、ドラマティックな役を中心に歌うようになった。

 声が重くなって、こうしたレパートリーに移行する歌手は少なくない。しかし、その時期はたいていクンデより早い。クンデはクラウスと勉強した際のことを、「彼のエレガントなフレージングから影響を受けました。フレーズに豊かな色彩をあたえる方法を、キャリアの初期に学べたのは収穫でした」と語る。

 そこで得たたしかなテクニックを磨きながら、時間をかけて声を育てたことで、多くの歌手が衰える年齢まで軽やかな声が保たれている。以後、声には自然に張りが生まれ、声量も音圧も増す一方、柔軟なテクニックは維持された。だから、どんなにドラマティックな役を歌っても、微妙な心情まで描き切るのである。

クンデの「青春の心」オールディーズも

 そんなクンデにとって「青春時代の心」と呼べる音楽は、意外にも生まれ故郷であるアメリカのオールディーズ・ポップスなのだという。
「オペラをはじめて観たのは20歳のときですが、ポップスはそれ以前から聴いていましたからね。コロナ禍にそうした曲とふたたび出会って、歌いたくなって、この10月にはジャズ・アルバムも出します。それを日本のみなさんにも、ぜひ聴いてほしいのです」

 今回、コンサートで何曲か披露するというが、クンデはその歌い方にもこだわりを持っている。
「一般にオペラ歌手は、この手の歌でもオペラの歌い方ですが、私はまるでフランク・シナトラ2世のように、やわらかく、ささやくように歌います」

 じつは筆者は、すでにこの夏、伊ペーザロで、クンデがオペラ・アリアのあとにオールディーズ・ポップスも歌ったコンサートを聴いた。ロッシーニ《ウィリアム・テル》の至難のアリアのあとに、シナトラ張りのポップス。劇場を埋め尽くした観客がすさまじいまでに熱狂したことを書き添えておきたい。


【Information】
グレゴリー・クンデ 偉大なキャリアを経ていまが旬
2025.2/1(土)13:30 サントリーホール

出演
グレゴリー・クンデ(テノール)
三ツ橋敬子(指揮) 東京フィルハーモニー交響楽団
ジョン・G・スミス(ピアノ)

曲目
〈名曲オペラ・アリア集〉
ヴェルディ:歌劇《椿姫》より〈彼女から遠く離れて…燃える心を〉
     歌劇《リゴレット》より〈女心の歌〉
プッチーニ:歌劇《マノン・レスコー》より〈なんてすばらしい美人〉
     歌劇《トスカ》より〈妙なる調和〉
レオンカヴァッロ:歌劇《道化師》より〈衣裳をつけろ〉
ヴェルディ:歌劇《イル・トロヴァトーレ》より〈ああ、愛しいわが恋人…見よ、恐ろしい炎を〉ほか 
〈名曲ジャズ・オールディーズ集〉
君の瞳に恋してる
バークリー・スクウェアのナイチンゲール
恋に落ちた時
今宵の君は
フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン ほか

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