ワーグナーには珍しい喜劇で締めくくる沼尻芸術監督の任期最終年
びわ湖ホールの「春の定番」、沼尻竜典指揮のワーグナー・シリーズが10回目で遂に最終回に。聖地バイロイトで上演されるのが10作だから、それに合わせて完遂の時が訪れるのは当然だが、やはり一抹の寂しさは拭えぬもの。長い第1幕が終わってホワイエに出ると、眼前には、かの紫式部も船出した浜辺が広がり、遠景では湖面と空がくっついている。それを眺めて目を休め、第2幕でまた「音の湖」に浸る — そのひとときをかけがえのないものとする方も多かったに違いない。
今回、掉尾を飾る一作は、ワーグナーには珍しい喜劇の《ニュルンベルクのマイスタージンガー》。物語は、歌作りを愛する中世ドイツの職人の日常を描き、有名な前奏曲もハ長調、第3幕のフィナーレもハ長調と「明るいトーン満載」のオペラだが、その陰には、中年男のハンス・ザックスが、うら若き女性エファに恋情を寄せつつも、騎士ヴァルターとの仲を取り持つ形で、彼女を「黙って送り出す」という切なさも。滋味に富む音楽を介して、人情味と芸術性が重なり合うさまが、本作ならではの醍醐味なのだろう。
このワーグナー・シリーズは、一人の指揮者が一つの劇場と共に成し遂げた、日本オペラ界の金字塔である。その一方で、筆者は、このシリーズに特別な感慨を抱いている。それは「どの舞台も、音楽を記憶に遺しやすかった」という有難み。ワーグナーではたまに、奇天烈な演出プランが耳を邪魔することも — 静謐な間奏曲の最中に、助演者がバタンバタンとのたうち回ったり。でも、びわ湖のセミ・ステージ形式のステージングは常に控え目で、音楽が拓く世界を妨げはしない。昨年の《パルジファル》でも、歌手たちが椅子に腰かけるだけのフィナーレが、各々の役柄をシンボリックに表し、忘れられぬひとこまになっていたが、今回の《マイスタージンガー》は、群衆シーンが得意な粟國淳のステージング。第2幕終盤のコミカルな乱闘騒ぎがどのように花開くか、舞台から目が離せない。
さて、今回も勿論、びわ湖の目玉は「キャスティング」。ひときわ豊かな美声のバリトン青山貴(ザックス)、国内外で大活躍のソプラノ森谷真理(エファ)、ベテランながら声音がなお若々しい福井敬(ヴァルター)など各人の美質を挙げればきりがないが、同じくベテランのバリトン黒田博が愛嬌ある敵役ベックメッサーを、びわ湖ホール声楽アンサンブル出身のテノール清水徹太郎が徒弟ダフィトを演じるのも注目の的。テレビの軽妙なナレーションでも人気の黒田と、全国で活躍著しい清水の新境地をどうぞお楽しみに。
最後に、マエストロ沼尻を長年支えた京都市交響楽団についてひとこと。偶然ながら、筆者は40年以上も前から、この楽団とオペラの相性の良さを体感してきた一人である。楽譜と誠実に向き合い、声に寄り添いながら音の層を厚くするこのオーケストラが、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》の音楽にさらなる躍動感を与えることを、今から大いに期待している。
文:岸純信(オペラ研究家)
(ぶらあぼ2023年2月号より)
2023.3/2(木)、3/5(日)各日13:00 びわ湖ホール 大ホール
問:びわ湖ホールチケットセンター077-523-7136
https://www.biwako-hall.or.jp/