環境と人にやさしいクラシック音楽とは
ポゴストキーナ「飛び恥」の衝撃

文:池上輝彦(日本経済新聞社メディアプロデューサー)

 クラシック音楽界が気候変動問題に直面している。東京都交響楽団と名古屋フィルハーモニー交響楽団は2022年12月23日、ロシア出身のドイツのヴァイオリニスト、アリーナ・ポゴストキーナが、気候変動対策の一環として航空機を今後一切利用しないと決めたため、23年11月の各定期演奏会のソリストを変更したと発表した。二酸化炭素(CO₂)排出量の多い航空機に乗らない「フライトシェイム flight shame(飛び恥)」運動の衝撃である。環境と人にやさしいクラシック音楽とは何か。新型コロナウイルス禍、ロシアによるウクライナ侵攻に続き、環境問題への対応も避けられない。

Alina Pogostkina ©︎Nikolaj Lund

航空機を利用しない持続可能な演奏活動

 都響によると、ポゴストキーナはシベリア鉄道も含めあらゆる交通手段を検討したが、ロシアから日本に渡る船便の利用も困難などの理由で来日を断念したようだ。彼女は「持続可能なツアーの新しい方法を示すため、演奏活動で航空機を利用しないと決心した」とのコメントを出した。温室効果ガス排出量を実質ゼロにする「カーボンニュートラル」や国連のSDGs(持続可能な開発目標)への高い意識を持った行動といえる。

 フライトシェイムはスウェーデンから始まった。同国の環境活動家グレタ・トゥーンベリが家族にも要求し、母でオペラ歌手のマレーナ・エルンマンも航空機を利用しなくなったという。演奏家は世界各地で活動するため、頻繁に空運を利用する。それだけに飛び恥はクラシック音楽界に影響する。もはや個人の極端な行動と捉えるだけでは済ませられない。欧州連合(EU)の欧州委員会は22年12月、パリのオルリー空港とナント、リヨン、ボルドーを結ぶ短距離の航空路線の運航を禁止するフランスの措置を承認した。

 音楽家の環境問題への取り組みは活発だ。2016 年、イタリアの作曲家ルドヴィコ・エイナウディは、氷河の融解と海面上昇の問題に警鐘を鳴らすために「北極に捧げるエレジー」を作曲した。 ノルウェーのスヴァールバル諸島の崩落する氷河を背景に、この曲を自らピアノで弾く映像も公開した。モルドバ出身のヴァイオリニスト、パトリシア・コパチンスカヤはマーラー室内管弦楽団と共に舞台芸術的プロジェクト「Les Adieux(告別)」を立ち上げ、気候変動の脅威を訴えるなど、国際政治に積極的に関わる演奏活動をしている。彼女も電鉄中心の移動を心掛けているという。

「エリート層」のためのものではない来日公演

 すべての人々を聴き手と考える音楽家は、戦争や貧困など人類共通の問題に取り組まなければならない、という使命感が強い。人類の生存を脅かす気候変動への意識も高い。ただ、飛び恥は地球環境を守る運動ではあるが、遠距離の人的交流を阻む。演奏家がフライトシェイムの行動に出ればオーケストラの来日公演やオペラの引っ越し公演は成り立たない。

 そもそも来日公演を通じて音楽が本当に人々に届いているか、という問題もある。もちろん、戦禍の中から来日したウクライナ国立歌劇場をはじめ意義深い公演はある。だが有名オーケストラやオペラハウスの来日公演のチケットは非常に高い。しかも東京をはじめ大都市で開かれる。経済的にも地理的にも聴けない地方のファンは多い。17年11月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率いて来日した指揮者のサイモン・ラトルは「音楽好きの人が多い日本では、聴きたい人すべてに届けることができず残念」と語った。逆に、平均賃金が上がらない今の日本でバブル期のような価格設定では、空席が目立つ公演もあるようだ。

 航空機によるCO₂排出量の半分は、世界人口の1%のリピーターによるといわれる。同様に、権威も知名度も価格も高い来日公演を聴けるのは大都市圏の富裕層や専門家、常連の関係者など一部にすぎないのではないか。そんな疑念が頭をもたげる。アウトリーチ(地域への訪問支援)活動に積極的な楽団も多いが、訪問先の選定がステレオタイプとも思える。

 村上春樹の小説『海辺のカフカ』は、トラック運転手の星野青年が喫茶店でベートーヴェンの「大公トリオ」を聴いてクラシック音楽に目覚める様子を描いている。ラトルは17年の来日時、最も嫌いな言葉として「クラシック音楽はエリート層のためのもの」を挙げた。大多数の一般の人々に音楽が届かないのならば、CO₂を排出して空路はるばる来日する意味はない。

配信サービスや室内楽、地元の演奏家に期待

 クラシック音楽界が改善すべき点は多い。まずはコンサートに来られない人たちにもインターネット配信や録音で音楽を届けるサービスを拡充することだ。かつてレコード鑑賞は高い価値を持っていた。ユーチューブであらゆる音楽が聴ける時代だが、過度の生演奏尊重を改め、配信やアーカイブによる音楽鑑賞にもう少し価値を置いていい。

 曲目の刷新も必要だ。ヘンデル、ハイドン、グラズノフ、マルティヌー、ヒンデミットといった作曲家には埋もれた傑作があり、日本でもっと演奏されていい。室内楽や歌曲を開拓する余地も大きい。ブラームス全作品の総演奏時間の3分の1は歌曲が占める。小さなリサイタルを聴く楽しみは大きい。

 国際コンクール入賞が相次ぐ日本の演奏家のレベルは高い。飛び恥の傾向が強まれば、地元の演奏家の出番だ。気候変動問題への対応は、私たちが本当に音楽自体を愛しているかどうかにかかっている。