ピアノの大家が弾く、ロマンティックな愛と夢
ピアノはたくさんの夢をみてきた。天才たちがピアノに託して、溢れ出る想像力を実らせていったからだ。
しかし、それだけの夢に耐えられる人間が、ほんとうのところ、どれだけいるのだろう? そうした莫大な夢の重みや、かぎりない美しさ、儚さや痛切さを、豊かなピアノの響きでふさわしく謳い上げることができるピアニストは決して多くない。というより、実のところ稀である。天才の天才性を傷つけたり、決して汚したりすることなく、まっすぐにそこに手を触れる道は険しいもので、だからこそ聴く人にとってはいたく優美な響きともなる。
さて、いまこのように語り出したのは、清水和音のこの秋のピアノ・リサイタルのことを想ったからだ。しかも、そこで織りなされるのは、ピアノが夢みたもっとも美しい夢の数々なのである。

ショパンとリスト、そしてラフマニノフとスクリャービンが同じ時代を、それぞれのやりかたで、しかし勇敢に生きたことは、ピアノ音楽の未来に途方もない可能性と財産をもたらした。自らがピアニストとして活躍して、リストとラフマニノフは時代を画すヴィルトゥオーゾとして絶大な名声を誇ったし、ショパンは独自に奏法を革新、スクリャービンもまた桁外れの個性をピアノで揮った。ピアノ音楽の歴史は、まさしく彼らとともにロマンティックな季節を開花させ、未来を熱く夢みていったのだ。
このたびのプログラムは、前半がショパンとリスト。まずは、ショパンから「2つのノクターン」op.62、「幻想ポロネーズ」op.61と晩年に書かれた傑作が選ばれている。ショパン最後のノクターン、最後のポロネーズで、生前に出版された作品群を結ぶことになった作品だ。
いずれも清水和音が愛奏する曲であり、ノクターンには優美で、しかし端正な詩情が息づき、ポロネーズでは逞しく男性的なショパンの魅力が遺憾なく抽き出されることだろう。いずれにおいても耽溺しないファンタジーの質が高く保たれるのが清水和音の演奏の魅力で、それはショパンの高潔な精神を尊重するがゆえの美質である。
リストからは「愛の夢」が選ばれ、ショパンに続き、夜の想像力がくり広げられることになる。もともとは多様な愛を描く3つの歌曲で、ピアノ独奏のトランスクリプションは1850年、ショパンの死の翌年に「3つのノクターン」の副題で出版された。リストの膨大な作品のなかでも第3番がとくに知られるが、3曲まとめて聴ける機会は貴重だろう。
地上の愛を捨て、殉教者になるという〈高貴な愛〉。愛の喜びを目前に、彼女の腕のなかで〈私は死んだ〉。男女の恋愛ではなく、理想の人間愛を謳う〈おお、愛しうる限り愛せ〉。3曲ともかぎりなく美しいが、それぞれに歌われる愛は質の違うもので、そこにもリストの懐の大きさがある。清水和音は自己陶酔をきらいつつ、それらをまっすぐに構築していくだろう。それが彼というピアニストの、作曲家へのまぎれもない敬愛の証だからだ。

そこから半世紀ほど進み、20世紀の訪れ前後のロシアへ向かう。スクリャービンの真骨頂がピアノの小品にあることは確かだろう。ここでは、彼が書いた膨大なプレリュードのなかから、1903年にモスクワで作曲された「4つの前奏曲」op.37が弾かれる。
いっぽうラフマニノフは、新進作曲家として注目されていた1896年に作曲した「楽興の時」op.16が、鮮やかなヴィルトゥオージティとともに、しっかりと構築されることになる。ショパンやリストの技巧的な性質や、彼らの性格小品や練習曲で開花したような多様さを全6曲に宿しつつ、ラフマニノフらしい繊細にして大柄な魅力を放つ圧巻の曲集である。
さて、ショパンとリスト、ラフマニノフ、スクリャービンは、ピアノ・ソナタにおいても独自の天才を示したが、キャラクター・ピースと称される小曲の分野においては、さらに自由な創造性を多彩に揮っていったとみられる。造型的な意志は一貫するにしても、枠組みを超えた幻想や詩情に溢れているのが小品の大きな魅力だ。
清水和音はもちろん、いずれの作曲家のソナタでも堂々たる名演を聴かせてきた名手である。劇的な構築を綿密に叶えつつ、大曲においても細部の美しさを濃やかに歌うことにすぐれたピアニストだからこそ、小曲のひとつひとつも確実な構成観のなかに繊細な美を究めたものとなる。
さらに言えば、コンチェルトが演奏活動のメインとなり、それから仲間たちとの室内楽が多い清水和音にとって、ピアノ・リサイタルのステージは近年たいへんに貴重な機会となる。ピアノ独奏曲に集中したコンサートは、ほとんど年に一度か二度くらいのものだから、なおさら聴き逃せない。

デビューから、もうすぐ45周年。歳月をかけて温められてきた名品が、磨き抜かれたピアニズムにより、かけがえのない美を物語る。ピアノ音楽史上の宝石たちが、多種多様な輝きを放つ贅沢なコンサートとなるだろう。まさしく夢のように。
文:青澤隆明
清水和音 ピアノ・リサイタル
2025.10/30(木)19:00 高崎芸術劇場 音楽ホール
2025.11/24(月・休)14:00 サントリーホール
♪曲目
ショパン:2つのノクターン op.62、幻想ポロネーズ 変イ長調 op.61
リスト:愛の夢 第1番、第2番、第3番
スクリャービン:4つの前奏曲 op.37
ラフマニノフ:楽興の時 op.16
問:サンライズプロモーション東京0570-00-3337
https://www.promax.co.jp

青澤隆明 Takaakira Aosawa
書いているのは音楽をめぐること。考えることはいろいろ。東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。音楽評論家。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる-清水和音の思想』(音楽之友社)。そろそろ次の本、仕上げます。ぶらあぼONLINEで「Aからの眺望」連載中。好きな番組はInside Anfield。
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