文:青澤隆明
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ヨーロッパの過去の一時期の音楽がクラシック、つまり古典として扱われたのは、啓蒙主義の進歩思想によるところが大きいだろう。そうして、時代はロマン主義へと勢いづいていくことになった。
ピアニストであり作曲家であるキット・アームストロングが「東京・春・音楽祭」で展開した『鍵盤音楽年代記』も、このあたりからピアノいう楽器が近代化し、つまりは拡張化していくプロセスへと入っていく。近代科学と機械工学の時代が訪れ、社会は急いで工業化に向かう。
4月8日の夜は、第4章【1820-1920:Visions】。この時代と言えば、ふつうにはモダニズムの世紀となるだろう。リストとドビュッシーの生涯がほぼ収まる1世紀だ。シューマンやブラームスは登場しない。なぜなら、本章では“多様なヴィジョン”がテーマとされるからである。
ここでの「複数のヴィジョン」は、スクリャービンふうの「幻視」というよりも、もっと写真や映像、科学と技術の時代の「客観的な視座」というほうに近いだろう。もちろん、そこにも新時代の人間感情の変容が重なっている。一般的な「ロマン主義」というのとは少し趣が違い、自己や内面を対象として客体視する方法論が敷衍されていく趨勢と、ヨーロッパ芸術の伝統がどう与し合ったかというところがキット・アームトロングの論点だろう。
プログラム前半は、ショパンの3つの夜想曲、ドビュッシーの『イマージュ(映像) Ⅰ』、リストの『超絶技巧練習曲集』からの3曲。ショパン20代の「夜想曲」op.15-2、op.15-3、op.27-2は、観察というよりは回想という趣が強い演奏になった。つまりは、幻視の一体感や内密さからは心理的な距離がとられている。言ってみれば、古典派的でもロマン派的でもないアプローチである。精細なタッチをもつアームストロングだが、このときの演奏は、精密というにはラフなところもみせた。
ドビュッシーの『イマージュ』は、各曲の標題からして象徴的である。「水の反映」ではオブジェクティヴで、非直接的というか物象そのものに近づく。「ラモーを讃えて」では「オマージュ」の距離はあるが、しかし直視的に対象をみている。「運動」はさらに音型的な響きに抽象されるが、曲集を通じての視座は定位を保っている。
それがリストの「超克のエチュード」になると奔流のように滾ってくるのは、奏者も演奏にさらに確信があるからだろう。勢いや愉悦とともに、感情的な強度が押し寄せてくる。「荒々しい狩り」、「夕べの調べ」、「熱情」が抜粋されたが、感情の荒ぶりや激しさを相応に打ち出しつつ、しかし主観的に没入しすぎることはなく、オープンな視座も確実に保っていた。
プログラム後半は、フォーレの夜想曲op.63、リスト晩年の3作から、20世紀へ踏み込んで、シェーンベルクの『6つのピアノ小品』op.19、オーンスタインの「飛行機に乗って自殺」までをひと繫がりに聴かせてしまう。19世紀末のフォーレの夜はリストに接近しているが、リストはさらに死に傾斜していく。「モショーニの葬送」にはまだ美しく調性的な響きもあるが、「死のチャールダーシュ」では無窮動的な舞踏に苛烈なリストが再燃。「暗い雲」での漂泊は、このときの演奏ではわりとかっちりとして、昏いがどこか甘美な消失へと向かった。
シェーンベルクのop.19の演奏は当夜の白眉で、「暗い雲」を引き継ぐようなメロウさに始まり、多様な情趣を凝縮しつつ、簡潔だが豊潤な響きで、個々に質量と計測が綿密に行き届いている。オーンスタインでは飛行機、すなわち戦闘機の時代に入るが、トーン・クラスターのうなりや機械的な反復と増殖に、リストも舞った「死の舞踏」が現代仕様で再帰する。アームストロングのピアノは、ここでも空間における音響の扱いが巧みで、膨張と収縮を見事にコントロールしている。特筆すべきは、後半の曲目がすべて、美しく豊麗な一連の流れにまとめ上げられていたことだ。
アンコールには、第2回の結びに弾いたバッハの「半音階的幻想曲」を「新しい耳でお聞きいただきたい」と述べて再訪したが、今回のプログラムの流れのうえでの勢いもついてか、さらに自由な演奏になり、痛切な感情を昂らせて終わる。沈潜、凝視、前進する推進力をもって、バッハをかくも自由に乗りこなしていく勇姿にたまげた。調性音楽の拡張が果敢に試みられていることがさらに明瞭に示された。
バッハの音楽がいかに前衛的に響いてもここにはまだ主ありと思わされるが、考えてみれば、ここにいたるすべての作品も主知的に知性と発展を尊重してきたことは確実なのだった。キット・アームストロングの知性とテクストへの信頼が、すべての鉱脈をひとつに繋ぎとめているのだ。
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4月もいつのまにか10日になり、年代記は第5章【1920-2023:Among All Cultures】に進み、戦間期から第2次世界大戦後を経て、現在へと漕ぎ寄せる。いよいよ私たちの時代である。
しかし、そのはじまりはラフマニノフの「『ラ・フォリア』による変奏曲」op.42で、17世紀のコレッリが自作に用いた古い主題へとまずは遡源する。鍵盤音楽の「黄金時代」から年代記を歩み出したキット・アームストロングは、ここへきて20世紀を代表するピアニストのヴィルトゥオジティに目配せしつつ、アメリカ時代の彼の最後のピアノ独奏作から「多文化主義」の幕を上げる。
そこから数年を遡って、ゴドフスキ1920年代の『ジャワ組曲』は「フォノラマ。ピアノのための音紀行」。ここで採り上げられた「クラトンにて」では、王宮のガムランが東洋的な熱い響きを運んでくる。異文化との出会いの心象だ。
20世紀はもちろんポピュラー・ミュージックの世紀でもある。ガーシュインの洗練されたソングブックからは、「ザ・マン・アイ・ラヴ」や「アイ・ガット・リズム」など5曲が弾かれ、新大陸とジャズとヨーロッパ音楽との邂逅が鮮やかに、利発に、そして甘美に謳われる。これらの曲はスタインウェイのピアノで聴ければ、さらにアメリカらしく、華やかに響いたかもしれない。
前半の曲目はこのクールの最初の10年ほどに集中したが、プログラム後半はやはり自作自演で名高かったソラブジから自作まで、ほぼ100年の時を走馬灯のように辿っていく。
ソラブジの大作『100の超絶技巧練習曲』の第36番は、終始左手だけで演奏される曲で、言わば、夜の音楽。広い音域を駆けて流麗に奏でられた。『3つのパスティーシュ』の第3曲は、リムスキー=コルサコフの『サトコ』の「インドの商人の歌」が素材とされ、インド(ソラブジ父方のルーツでもある)の商人がノヴゴロドの人々を前に自国を紹介する場面を、イギリス生まれの作曲家=ピアニストが模倣するという枠組みで、複雑なエスニシティが織りなされるわけだ。
続いて、年代記は20世紀後半に入る。リゲティはブダペスト時代の『ムジカ・リチェルカータ』から2曲、21世紀へまたぐ『エチュード集』からは第1巻の「虹」と第2巻の「魔法使いの弟子」が採り上げられた。「虹」の倍音だけでなく、「魔法使いの弟子」もエッジーではなく、やわらかく甘美に響いた。そののち、ペルトの「アリーナのために」の微細な響きで、静謐へ向かう。
キット・アームストロングの2017年作「素描のエチュード」は、点描風のブラシさばきを想わせてはじまり、オクターヴや調性的な響きの多用、加速した運動感、グリッサンドなど、筆致のエチュードを洗練された書法でくり述べていく。
これが「デッサン」なら、「年代記」の終曲として演奏された武満徹の「雨の樹素描 Ⅱ」は「スケッチ」で、いずれも素描。メシアンの追悼に書かれた本作が、武満最後のピアノ独奏曲となった。かくして「雨の木」が媒介する水の循環により、生命の円環が結ばれる。遠大な年代記は、そうして自然の暗喩へと心象を昇華させていった。
しかし、そこで終わりではない。さらにアンコールでは、16世紀を再訪し、初回に披露したタリスの「御身はまことに幸いなる者Ⅰ」へと帰還。英国の文様を装飾的に織りなし、遠大な旅を遡源させる回想で結んだ。かくして、啓蒙主義的な人間は自ずと遠景になっている。10日の間の5日に分けて、500年にわたる時間紀行を展開しながら、キット・アームストロングは文脈によって変容する聴こえかたを、年代記全体のアンコールにいたっていまいちど示唆したのである。
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100年間それぞれにストーリーをひとつずつに絞り込む視座で各章のテーマを掲げ、「多様な聴きかたを啓発できればという考え」をキット・アームストロングはこうして具象化していった。「なにより重要なのは、共感をもって、ポジティブな方法で、つまり私自身の音楽への愛をもってコミュニケートすること。自分が暮らす現在から思考しつつ、私たちは蓄積された過去へと開かれた多元的な社会に生き、未来へと入っていくのです」と、『ぶらあぼ』のインタヴューでも自ら予告していたとおりに。
聴き手のもとに響いてきたのは、プレゼンテーションという紹介の喜びだけではない。多様な作品を描き分け、また結び合わせるなかにも、なによりピアノを弾くことの愉しみを、奏者が率直に息づかせていたことがまざまざと感じられた。キット・アームストロングはじっと楽しそうにピアノを弾くのである。そこには感情の率直な発露もあり、演奏のさなかの高揚、感覚の解放もある。理知的なだけでも、感覚的なだけでもなく、造型的構築とピアノを扱う技量が高い次元で結びついている。だから、どれほど複雑なことを試みていても、立ち上がってくる音楽の表情はいたって簡明でストレートでもある。いたく饒舌なはずなのに、したたかでありながら、静かに澄んでもいる。偏向はあるはずなのだが、いたってフェアでもある。
理性がなにかに光を当てることを本性とするならば、この壮大な年代記のテクスチュアを精細に描き出したのは、ヨーロッパ音楽芸術創造に寄せるキット・アームストロングのまっすぐな信頼である。それこそは、多様な文献をていねいに紐解きつつ、美術館の各室の展示を訪ねるように、彼が身をもって明かした解釈と聴取の一貫した喜びでもあった。私たちは確かに歴史に学ぶことができるし、その分だけ、もっと賢くなれるはず。キット・アームストロングが過去の宝物を重視するのは、決して未来を軽視しないからだ。端倪すべき才能であるだけではすまない。キット・アームストロングは希望である。
【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら
音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。