文:青澤隆明
今年の春は短かった。来たかと思えば、もう過ぎていた。
だが、春が長く思えた試しはない。いつも置き去りになるのは、過ぎていく時ではなく、人間なのだ。ほんとうは、人がただ、季節のなかを通り過ぎていくだけなのだとしても。
感傷的になる必要はないし、その意味もなかった。もうそこに夏日がきている。人間の積年の暴挙で、いまや天気はめちゃくちゃだ。これでは季節に合わせる顔がなくなってしまう。
それでも、『東京・春・音楽祭』は本来の姿で、今年の春にまた巡ってきた。パンデミックに耐えて、上野に桜を咲き誇らすために。あっという間に咲いて散るのが、舞台芸術のありようだ。それゆえに、多彩な閃きの残像のなかで、私たちはまだ多くを感じとり、考えようとしている。
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キット・アームストロングのことを、ここにちゃんと書いておかなくてはいけない。彼が5日を縫うように旅した「鍵盤音楽年代記」、その500年にわたる遠大な楽興の歳月は、まだ聴き手を包み込んだままなのだから。もう日が経ってしまったが、せめて夏が過ぎるまえに、その残響を記しておかなくては。
春を意味する「プリーマヴェーラ」を、ダンテは「最初に来た者」と見立てた。春が最初にやってくるが、それを春と知るのは、いつも後からやってきた者たちである。
キット・アームストロングはヨーロッパ音楽の歴史のごく最近のほう、先端のほうを生きている現代の表現者だ。彼が作曲家としても演奏家としても、その歴史が結んだ膨大な遺産を、鉱脈を掘り当てるように畏敬しているのは、きわめて理知的でまっとうな姿勢だと思える。それは、頑健で堅固な意志でもある。
もっと言えば、キット・アームストロング自身が生まれたのも春で、それは1992年の出来事だった。ちょうど遠大なプログラムの締めくくりに選んだ、武満徹の「雨の樹素描 Ⅱ」が同じ年に作曲されたはずである。年代記のすべてのプログラムを聴き終えた後で、キット・アームストロングにその符合を伝えると、「そう。じつは今回弾いたピアノも1992年製なのです」とうれしそうに微笑んだ。ルネサンスから21世紀までのピアノ音楽を旅する船として、彼が選んだのは一台のベーゼンドルファー・インペリアルだった。ヴァージナルの時代からモダンピアノによる現代まで、多様な作品を通じて、最大公約数的な成果を生むならばこのピアノ、という選択になるのだと彼は言った。キット・アームストロングがいくらまだ若いとは言っても、もはや「キッド」ではないのだ。すでに30年ほどの歳月が、新たにこの地上に流れていたのである。
その間に、いかにも早熟にみえたキット・アームストロングは、青年の純度を保ったまま、大家への道を進んでいるさなかにみえる。つまり、すべてはよく考え尽くされたとみえて、まだまだ未知のままなのである。だからこそ、際限なくピアノの前に向かい、それを聴く必要があるのだった。
鍵盤音楽の歴史を、その輝かしい源流から辿り、すべてを新しく生き直してみる。それが、キット・アームストロングが自らの演奏解釈と、「東京・春・音楽祭」に集う人々の聴取のために設定した道筋だった。作曲者も作品も多岐にわたるから、それこそ辿りかたは無数にあるはずだが、聡明な彼は100年ごとに大きくエポックを分け、そこに相応しいトピックをひとつずつテーマとして据えた。各世紀のアングルをくっきりと枠組みして、方法論的な焦点を当てることで、個々の作品の多様性という側面を超えて、ヨーロッパ音楽の思索や情動のうねりを大きく描き出そうとしてみせたのだ。
それには余程の自負を伴うだろうし、知的な操作と音響表現の力量が求められるはずだが、そうした試みに臆せず大胆に、しかも不敵な直視で向き合ってしまうのが、キット・アームストロングの空恐ろしい才能である。それでいて、知が勝るかと言えば、ピアノを弾く喜びと聴取の感性がつねに鋭敏に拓かれている。密室的な秘儀どころか、きわめてオープンで即興的な姿勢で、まっすぐに作品を凝視しつつ、聴衆とともに、歴史の大きな流れを生き直そうとしていたのだ。
それは、レパートリーや演奏表現上の征服ではなく、愉悦とスリルに溢れた大航海なのである。とはいえ、精緻な統制を彼が手離すことはなく、思考の明晰さによって、響きはすべて端正なほど明瞭に縁取られている。時代の早いほうの作品群から、彼が複雑な対位法の扱いに卓抜な手腕と輝かしい技量を揮ったことからも顕著なように、声部への見通しが響きの上で曇ることはない。多様な表現や方法を通じても演奏解釈に端正な清潔さが保たれるのは、理知的なアプローチを身上とする作曲家の視座ゆえだ。
ここまで具体的なプログラムもテーマもなにひとつ挙げずに書き進んできたのは、個々の作風の差異を超えて、西洋音楽という巨人の歩みと変容をまずうねり出そうとするキット・アームストロングの気概に敬意を表してのことである。これほどのことを成し遂げてしまう勇気と胆力こそが、彼という音楽家の矜持であり、ヨーロッパ音楽の歴史を真っ向から引き受けようという堅実な覚悟の表明なのだ。
要するに、キット・アームストロングは決して照れもせず、迂回も釈明もせず、現代の音楽家として、歴史的大家の末裔として生きる重大な責任を着々と果たそうとしている。なぜなら、彼はそれほどまで深く、ヨーロッパ音楽の鉱脈に根差してしまっているからである。
だから、このまますべての作品を匿名のまま記していってもよいのだろう。先に名を挙げたアームストロングと武満だけが重要なのではなく、この壮大なステージでは、音楽の歴史的時間と地理の変容のいっぽうで、そこに通底する言語としての普遍性が第一の主人公とみなされ、プログラムを織りなす作曲家や作品、すなわちすべての登場人物がその副次的な主人公なのである。あるいは、キット・アームストロングという現在と、聴取のありようと、種々の過去の天才たちとの邂逅こそが真の主役なのだ。
「クラシック音楽とはつまり、人類は世代を超えて継続的に歴史を理解し得る、という考えに寄せる芸術家たちのオマージュなのです」と語り、その幾層ものレイヤーを聴く者に感知させようと努めるキット・アームストロングにとっては、すべてはおなじひとつの言葉に属しているが、しかしその個々の弁はかくも口々に多様な才気を宿して響き合う群像なのである。それでも、決してバベルの塔ではなく、相互の理解が十二分に可能な地平に立っているということこそが、彼が心技体を尽くして、真率に描き出そうとした大命題であるはずだ。だがいっぽうで、聴きかたという感受の方法に関しては、万華鏡的なアングルを提起することができる。
キット・アームストロングは、多種多様に個性を誇る作品たちを集積させ、一連の関係に沿って、聴覚を拓くことで、一夜ごとの聴取の文脈を造型しようと意図していたに違いないのである。彼は親切にも、同一曲を別の回のアンコールで再度演奏することをも交え、文脈による聞こえかたの差異を詳らかにすることも愉しんでいた。
すべては耳の感覚にかかってくる。音楽はなにより聴き方の問題だからである。
(つづく)
【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら
音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。