METデビュー! 藤村実穂子(メゾソプラノ)インタビュー

原点見つめ直す《さまよえるオランダ人》にマリー役で出演、
日本人初のMETライブビューイング登場、そして今伝えたい大切なメッセージ

取材・文:池上輝彦(音楽ジャーナリスト)

日本が生んだ世界屈指のメゾソプラノ・藤村実穂子が米ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)に満を持してデビューを果たした。3月10日上演のワーグナーの歌劇《さまよえるオランダ人》マリー役を歌い演じた。独バイロイト音楽祭やウィーン国立歌劇場、伊ミラノ・スカラ座など多くの著名な音楽祭や名門オペラハウスで活躍してきた藤村。「METだけ抜けていた。お待たせしましたという感じで来てくださって喜びもひとしお」と話す。新型コロナウイルスの感染拡大でその後の公演は中止となってしまったが、幸いにも10日の上演がライヴ収録され、日本でもMETライブビューイングとして5月に上映される。国際的ワーグナー歌手にMET初登場への感想を聞いた。

(C)松竹

──METデビューは藤村さんの音楽人生の中でどんな意味を持ちますか。
「スカラでもウィーンでもバイロイトでも、歌いたいという願いが全部かなって、最後に残っていたのがMETでした。歌手であれば皆さんこの歌劇場で歌いたいと思うはず。本当の歌を歌っていれば必ず伝わるという気がしてうれしい」

METデビューへのきっかけは2017年、カナダのラノディエール音楽祭。MET次期音楽監督が決まっていたヤニック・ネゼ=セガン指揮のモントリオール・メトロポリタン管弦楽団によるワーグナー最後の楽劇《パルシファル》(演奏会形式)に、定評のあるクンドリー役で出演したときだ。「ヤニックはリハーサルから言葉にならないほど感動している様子でした」と藤村。そして車で移動する際にMETのディレクターが乗り込んできて、「今日の公演を聴きに来た」と言った。公演後に連絡があり、「歌ってもらえる作品を一生懸命探し、マリー役を見つけたけれどお願いできますか」とオファーを受けた。《パルシファル》での歌唱がデビューに直結した。

──欧州を中心に活躍する中で、米国のMETにはどんな印象を持ちますか。
「カーネギーホールにデビューした際、ニューヨークは特別な街だと思いました。みんなアグレッシブで戦士のような印象を受けました。私にとって音楽は祈りです。昼間戦っている人々が夜、癒やしや憩いを求めてMETに来る意味は大きい」

──ワーグナー初期の《さまよえるオランダ人》はご自身にとってどんな作品ですか。
「下積み時代と言えば語弊がありますが、オーストリア第二の歌劇場グラーツ歌劇場の専属歌手だったとき、《さまよえるオランダ人》のマリー役も1公演だけ歌いました。その後、ワーグナーの中・後期の作品でメゾソプラノのいろんな主役を歌ってきました。そして今またマリー役に戻ると、ワーグナーは初期の作品から、女性(ゼンタ)から命を懸けて愛されて、初めての男(オランダ人)も同時にAuflösung(氷解、解決という意味のドイツ語)される、本当の愛とはそういうものだということをテーマにしていたのだと改めて気づかされます。それがワーグナーにとって《パルシファル》を除く全作品の核心のテーマだったと分かります。だから今、マリーに立ち返ることができて本当に良かった。マリー役は23年ぶりくらい。作品がどう構築されているかを勉強し直します」

今回は指揮がワレリー・ゲルギエフ、演出は映画監督でもあるフランソワ・ジラール。オランダ人(バスバリトン)にエフゲニー・ニキティン、ゼンタ(ソプラノ)にアニヤ・カンペ、ダーラント(バス)にはフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ。共演する歌手について藤村は「みんな友達」と話す。

不遜な言葉を吐いたオランダ人は悪魔に呪いをかけられ、幽霊船で世界の海をさまよう。7年に一度許される上陸の際、永遠の愛を誓う女性だけが彼を救済する。ダーラント船長の娘ゼンタはオランダ人を救えるか。

──聴きどころと、ゼンタの乳母マリー役の難しさは何ですか。
「どんな心理状況が積み重なって、ゼンタのオランダ人への愛と自己犠牲という結果に至るか、それがどう構築されていくかです。ゼンタにオランダ人への思いを植え付けたのは実は私が演じるマリーです。彼女はゼンタにオランダ人の唄を歌い聴かせてきた。ゼンタが思い描いていた想像上のオランダ人が本物と重なった。そこに父ダーラントも重なり、ファザーコンプレックスがどう絡まってくるか。ゼンタをそんな精神状態にさせた罪悪感がマリーにあるのか。それは永遠の謎ですが、深層心理や無意識の部分を出せるかどうかですね」

(C)松竹

──日本人歌手で初のライブビューイング登場への思いは。
「日本人初にはこだわっていない。日本では(歌手志望者らが)私を神格化する。そんなときは必ず『自分の歌を歌ってね』と言います。歌はその人の生き方とイコール。コピーペーストではなく、楽譜と向き合って自らの解釈をしてほしい。良い音楽とそうでない音楽の違いは、魂を込めているかいないかです。同じ作品でも時を経て歌うと新たな発見がある。そういう意味で私は音楽に心から感謝しています」

このインタビューの後、世界は根底から覆された。新型コロナウイルスによるパンデミック(世界的大流行)が人々の日常生活に襲いかかり、人間に欠かせない営みである音楽も瀕死の重傷を負ったかのようだ。危機に直面する今、藤村は一人の芸術家として、歌手として、人として、貴重なメッセージを届けてくれた。

「イタリア、スペイン、フランス、オーストリア、ベルギー、米ニューヨーク州、ドイツなどに外出制限令が出ています。食品店、薬局、病院と、在宅勤務の認められない会社に行く以外は、家にいて家族以外と接してはいけないというものです。国境も閉められています。普段私はオペラハウスとホテル、空港を往復する以外は家にいて、常にこういう状況にいます。強風で声帯がやられるので、徒歩10分でもタクシーに乗ることも多々あります。ただそれは音楽のため。こういうときにこそ音楽が必要なのに演奏できない。
業務停止のため、4月から月給のないMETのオケ、合唱、優しかったMETの女性合唱の方たち、『日本人ソリストがMETに来てくれるので楽しみにしていた』と言ってくれた日本人スタッフたち。毎日ギリギリで何とかやってきた歌手、演奏家、楽団員、俳優、劇団員、アーティストたち。命を救おうと走り回っている医者、看護婦、介護員。このジレンマの中で私は思っています。音楽とは自分の情報の多さを見せびらかす場ではなく、作曲家や詩人、その時代背景、あるいは演奏家の考えを感じ、思いをはせることではないかと。人々の思いを感じ取ることではないかと」

そして今回の歴史的なパンデミック状況の中で、藤村は人間が取り戻すべき大切なものがあると説く。

「人間はもともと自然の利子で生きてきました。しかし我々人間は自然の一部であることを忘れ、科学の名のもとに解析分解することによって、まるで自然を凌駕したかのように思っています。『この』機会は、我々の『もっともっとモード』に一時停止が掛かり、もう一度見つめ直す機会に思えてなりません」

人と人とのつながりが分断される、そんな困難な今だからこそ、「音楽は人々の思いを感じ取ること」という藤村のメッセージをかみしめたい。

Profile
藤村実穂子/Mihoko Fujimura

現代屈指のメゾソプラノ。日本が生んだ国際的ワーグナー歌手。東京藝術大学音楽学部声楽科卒・同大学院修了後、ミュンヘン音楽大学大学院留学。国際コンクール入賞を重ねてグラーツ歌劇場専属歌手に。2002年に日本人初の主役級でバイロイト音楽祭デビュー。9年連続で同音楽祭に出演し、ワーグナー作品のメゾソプラノの主役をすべて歌いきる。クラウディオ・アバドやズービン・メータら多くの著名指揮者と共演。ドイツ歌曲やマーラーの交響曲でも高い評価を得る。日本では2021年3月に新国立劇場での飯守泰次郎指揮《ワルキューレ》にフリッカ役で出演予定。

Information

METライブビューング
ワーグナー: 《さまよえるオランダ人》(新演出)

2020.5/8(金)〜5/14日(木)(東京・東劇のみ5/21(木)までの2週間上映)

指揮:ワレリー・ゲルギエフ
演出:フランソワ・ジラール

出演:
オランダ人:エフゲニー・ニキティン
ゼンタ:アニヤ・カンペ
ダーラント:フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ
マリー:藤村実穂子
エリック:セルゲイ・スコロホドフ
船の舵手:デイヴィッド・ポルティッヨ

MET上演日:2020.3/10
https://www.shochiku.co.jp/met/
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