イーヴォ・ポゴレリッチ(ピアノ)インタビュー

平凡な演奏家によって演奏されては、その輝きは聴こえてこない。
この輝きを聴かせるためには、相当の“宝石職人の手”が必要となるのです

interview & text :片桐卓也
photos:I.Sugimura/Tokyo MDE

数々の伝説に彩られたピアノの鬼才イーヴォ・ポゴレリッチ。日本では2005年以降、比較的コンスタントにコンサートを聴く機会があったが、録音は1998年に発表されたショパン『スケルツォ』(ドイツ・グラモフォン)以来、長くリリースが途絶えていた。そんなポゴレリッチだが、このたびソニー・クラシカルと専属契約し、新たに録音をリリースした。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第22番(作品54)、第24番「テレーゼ」(作品78)、そしてラフマニノフの傑作として知られるピアノ・ソナタ第2番という組み合わせによるものである。来日中のポゴレリッチに取材する機会があり、その録音の話題をメインに話を聞いた。

ゆっくりとした口調ながら、その発言の内容は確信に満ちている。ベートーヴェンとラフマニノフというふたりの音楽家について、雄弁にポゴレリッチは語ってくれた。

ポゴレリッチは1958年ベオグラード生まれ。12歳からモスクワの中央音楽学校で、その後はチャイコフスキー音楽院で学んだ。1976年からは生涯の師となるピアニスト、アリス・ケゼラーゼに師事し、数々の国際コンクールに優勝した。1980年のショパン国際コンクールでは本選に残ることができなかったが、それに抗議したマルタ・アルゲリッチが「彼は天才よ」という言葉を残して、コンクールの審査員を辞め、帰国してしまうという事件が起きた。それによってポゴレリッチの名前は世界に広まることになる。

以後、ドイツ・グラモフォンとの録音をコンスタントに行い、世界各地で演奏活動を続けてきた。若い音楽家へのサポートも熱心で、ドイツのバート・ヴェリスホーフェンでのポゴレリッチ音楽祭では、若い音楽家に著名な演奏家と共演する機会を与えている。1988年にはユネスコから親善大使に任命された。初来日は1981年のことであった。


── 21年ぶりに録音をリリースされた訳ですが、録音を再開された理由を教えて下さい。

正確に言えば、21年ぶりの録音という訳ではありません。ベートーヴェンの2つのソナタは2016年に録音されており(注:Idagioより配信)、ラフマニノフのほうは2018年の録音です。リリースは確かに21年ぶりになるのですが。その間、別にどこかに行っていたという訳ではありませんよ(笑)。私はいつでもここに居て、演奏を続けていました。

ベートーヴェンとラフマニノフに関して言えば、ベートーヴェンのほうが最近勉強した作品であり、ラフマニノフはすでに30年以上も付き合ってきた作品です。私はいま61歳ですから、ラフマニノフとは人生の半分ちかくを一緒に過ごしてきたことになります。

ベートーヴェンの作品78(第24番)は10年ほど前から取り組んだ作品で、作品54(第22番)のほうはもっと最近になって取りかかった作品となります。それで4年前に録音を行ったということです。

ラフマニノフはずっと長く付き合って来た作品でしたが、これまで録音は行ってきませんでした。もともとラフマニノフという作曲家に興味を持ち、このピアノ・ソナタ第2番にも興味を持っていたのですが、なにか「開眼」するのを待っていたという感じです。演奏を続けながら、自分の感覚の中で、求めていたものはこれだと感じた時に録音に踏み切ったということです。

その際に、実際に作品を理解すること、そしてその作品を演奏する上でさらなる高い次元を求めることが必要だと思います。作品を録音するにあたって、これまでの演奏の歴史、様々な録音などを振り返りながら、その上で自分はそこに何を付け加えることが出来るだろうかという点を考え、また現代のピアニズム、私のピアニズムで作品をどう表現できるかを考え、この作品の録音を通して、私がどういう進化を遂げたかということを表現してみました。

── ベートーヴェンに取り組まれてきて、彼の作品の魅力はどこにあると感じていますか?

私は作曲家の“しもべ”であると思っていますが、その作曲家の作品を演奏する時になにが一番大切だろうかということをよく考えます。例えばベートーヴェンですが、学校に行くと、よく「怒っている」ベートーヴェンの肖像を見かけることがあります。上から生徒を見下ろすようなイメージで、ベートーヴェンは常に怒っているイメージをみんな持つかもしれませんが、必ずしもいつも怒っていた訳ではありません。実際に彼の音楽はドラマティックでありますが、その中には人間味というものも感じられます。彼の音楽に人気があるのは、人間的であるからこそではないでしょうか。

彼の音楽の中でも、特に交響曲やピアノ・ソナタのジャンルではどんどん新しいものを開拓していった人でした。本人も優れた演奏家でしたが、音楽の新しい世界を切り開いた人です。それを考えずに、コンサートでベートーヴェンの音楽を聴く場合、ただ崇高なものであるというだけで聴いている人が多いような気がします。それは一種の「混乱状態」とも呼べるかもしれません。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタの中でもあまり演奏されない作品に入るこの2曲を前面に出して、それを多くの聴衆が聴けるような形にすること。ベートーヴェンの中にある創作の秘密を分析しながら、楽器の進化と共にあった彼の創作過程を明らかにしたいと思いました。この2つの作品によって、ベートーヴェンの後に続く作曲家たちが大きな影響を受けたということもありますからね。

また、ベートーヴェンが当時持っていた「情熱」、ピアノという楽器に対して感じていた「情熱」も表現したかった。フランスのピアノ・メーカーであるエラールから新しいピアノを贈られた後で、ベートーヴェンはその楽器への興味に満ちあふれていた時代でした。新しいピアノの技術がベートーヴェンの創造性というものを刺激していた時期だったのです。そこからベートーヴェンが作り出したのは宝物のような作品でしたが、平凡な演奏家によって演奏されては、その輝きは聴こえてこない。この輝きを聴かせるためには、相当の“宝石職人の手”が必要となるのです。

── ラフマニノフもまた素晴らしいピアニストであり、また素晴らしい作曲家でもありましたね。

ラフマニノフの音楽は、なぜか「二流」というイメージで語られることが多いですね。ドイツ人には「ああ、彼の音楽はサロン・ミュージックだね」と言われることが多くあります。アメリカでは、ちょっと下品というか、外観にこだわった特殊な効果を持った演奏が多いようです。いわゆる内面のない空っぽの演奏が多いと思います。ロシアでは「自由で自発的な音楽だ」という見方をされます。ですが、そういう表現というのはラフマニノフの知性を馬鹿にした考え方によるものだと思います。私はそれらとは違い、ラフマニノフの天才性を証明したかった。ピアノ・ソナタ第2番は、彼の頂点にあるソナタだと思います。

自然を例にとって言えば、豊かな自然の中にはたくさんの高峰がありますね。エベレストだとか様々に。ピアノの世界にも自然界のように高峰というものがあります。19世紀においてもそれがあるし、ラフマニノフのこのソナタは20世紀の作品ですが、すべての時代、国々を見回しても、このような高みに達したピアノ・ソナタは少ないと思います。私は言葉を使わないで、芸術家として結果を出して、この作品の価値を世の中に示したいと思いました。

── ベートーヴェンとラフマニノフという組み合わせはとてもユニークなものだと感じましたが。

この二人の作曲家の組み合わせにはびっくりされるかもしれませんね。しかし、ぴったりだと思いませんか。天才と天才が二人。当然、両者の間には時間が流れていますし、音楽の様式も違う。でも、音楽の質という点においては共通しています。彼らが描こうとしていた「内面の絵」が録音の中で捉えられていれば良いなと思います。録音は音によってなされるものですが、作曲家たちはその内面にある風景、絵を持っていて、それを一つひとつの楽章に表現していったのだと思います。だから、彼らの持っていたその才能と創造性と知性を表現したいと考えたのです。

── とても興味深い話をありがとうございました。

(通訳:井上裕佳子 取材協力:KAJIMOTO/ソニー・ミュージックレーベルズ


Information

イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル

2020.2/16 (日) 19:00 サントリーホール(完売)

J.S.バッハ:イギリス組曲第3番 ト短調 BWV808
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第11番 変ロ長調 op.22
ショパン:舟歌 op.60
     前奏曲 嬰ハ短調 op.45
ラヴェル:夜のガスパール

問:カジモト・イープラス0570-06-9960
http://www.kajimotomusic.com/ivo-pogorelich-2020/

CD『ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ第2番&ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第22・24番』
ソニー・クラシカル
SICC-30512
¥2600+税
https://www.sonymusic.co.jp/artist/IvoPogorelic/


Official Website

https://ivopogorelich.com