リスクのないところには潜在的な可能性もない。音楽はない。楽しみもない。
取材・文 青澤隆明
“I’m Home!”の幕を手にして、ジョナサン・ノットがカーテンコールに登場したとき、私たちの胸に熱く去来した思いはひとつだろう。2021年5月27日、東京交響楽団を指揮してミューザ川崎に帰還した音楽監督ノット。そのメッセージは強い意志をもって広がった。
「わが東京交響楽団、そして聴衆との再会が待ち遠しいです。みなさんは音楽の一部ですから。非常に困難な時期が続いていますが、それはまた、ともに音楽することの重要性を心に刻む時期でもある。5月にもきわめて特別な関係を実感しましたし、昨夏のフェスタサマーミューザも驚くべき体験でした。Covid-19の情況下、やむなく録画映像で出演しましたが、その『英雄交響曲』の演奏を同時配信で視聴したとき、私は強烈な繋がりを感じていました。奏者たちは私の頭のなかにある音楽と同一性をもつ演奏をしてくれた。それはとても美しく、胸を突き刺すような音楽でした。なぜなら、そこに演奏家たちの信頼、そして指揮者が映像だと知りながらコンサートにきてくださった聴衆の信頼があったからです」
来日してホテルで隔離期間を過ごすノットの内面は、楽譜との対話を鋭く深めて、すでに音楽で激しく煮え立っているようだ。東響とのシーズン8を果敢に歩むさなか、フェスタ サマーミューザ KAWASAKI 2021のオープニングもまもなく鮮やかに祝う。
「いまホテルの部屋に缶詰めで、さまざまな音楽が悪魔のように頭のなかで戦っている状態(笑)。オーケストラと創り出したいことが、ますます膨れ上がるばかりです。あらゆる偉大な作曲家の頭には魔物が棲んでいて、その魔力が作品の全体をかたちづくっている。音楽を愛しているなら、音楽がどこか別世界に私たちを連れ出すことはおわかりでしょう? いまの私もそうだし、コンサートにいらっしゃるみなさんも自分自身の外へと連れ出されることを喜びと感じているはずです。私にとってもっとも重要なのは、わかち合うということ。それは喜びであり、また大胆なチャレンジでもある」
多種多様な作品を手がけるだけに、異形の魔物たちにも悩まされるのだろう。その孤独な時間のなかから、知性的にも感覚的にも強度な文脈で、独創的なプログラムが織りなされる。
「私はできるだけ大きなレンジをとって、多様な作曲家を採り上げたいと思っています。東響との8年間、最初の共演からは10年になりますが、演奏曲目もかなりのリストになります。奇妙なことに、私が多くの時間をともにする作曲家は、美だけでなく暗部を多く抱えた人たちばかり(笑)。だから、危険ではあるけれど、それだけ得るものも素晴らしく大きい」
7月の東響定期にはシュトラウスの『ドン・キホーテ』とシベリウスの交響曲第5番、フェスタの開幕ではラヴェル、ヴァレーズ、ガーシュウィンを結びつける。19世紀末から1930年前後までの激しい変容と冒険が、2つのプログラムを通じて多彩に展開されていく。日本の次世代演奏家を大切にしてきたノットらしく、定期ではチェロの伊藤文嗣、ヴィオラの青木篤子という両首席奏者を立て、フェスタでは再共演となるピアノの萩原麻未を迎えるのも楽しみだ。
「『ドン・キホーテ』は聴きやすく親しまれる作品ですが、細部を検証すればするほど、シュトラウスが主人公に託して、いかに彼自身の敵や夜と闘っているかがわかる。本作の寓意を深く考えることは、人生と音楽をさらに興味深いものにするはずです。シベリウスの交響曲第5番は1915年のオリジナル・バージョンを採り上げることも考えましたが、これは実に興味深い版で、かなりモダンで形式的な闘争が内部にみられます。今回は1919年の改訂版で演奏しますが、いずれにしても19世紀半ばまでの交響曲と異なり、シベリウスやシュトラウスの構造は複雑で、最初の音からすべてを手繰り寄せるようにして最後まで行き着かないといけない」
折しも7月はフランスとアメリカの独立記念月にもあたるが、フェスタのプログラムでは豊かな色彩やリズムとともに、自由と独立の冒険的気風も鮮烈に沸き立つことだろう。
「いまは100年ほど前の音楽を振り返るのに良い時期です。その頃、ガーシュウィンはパリに行ってラヴェルに師事したいと望みました。ラヴェルはアメリカへ行き、ヴァレーズはパリからアメリカに渡った。ヴァレーズの『アルカナ』は大音響で前衛的ですが、構築や形式の発想は非常に古典的なものです。ガーシュウィンの『パリのアメリカ人』、ラヴェルのピアノ協奏曲はもちろんジャズの影響を受けている。ヴァレーズとの共通点は、モダニズムとの関わりです。非常に魅力的な組み合わせですから、知的な喜びだけでなく、コンサートを通じて感情的で楽しい体験をしていただけると思いますよ」
鋭い知性で考え抜かれたうえに、生きた感情が生起するのがノットと東響のコンサートのスリリングな魅力でもある。
「リスクのないところには潜在的な可能性もない。音楽はない。楽しみもない。音楽は生きものです。愛する音楽を表現して、わかち合い、聴衆のみなさんの気を受けとり、それをひとつに合わせて、なにが起こるかをみんなでともに体験する――それがゴールです。耳を研ぎ澄ませて、聴き手を驚かし、エキサイトさせて、新たな興味をかき立てる。『これはいままで知らなかった』と言われるような演奏をすべきだ、私はいつも思っています」
*[2021.7/13追記]シベリウス交響曲第5番の版について、記事公開時に「1915年版での演奏」としておりましたが、改訂版の誤りでした。ここにお詫びして訂正いたします。
●東京交響楽団
第692回 定期演奏会
2021.7/17(土)18:00 サントリーホール
川崎定期演奏会 第81回
7/18(日)14:00 ミューザ川崎シンフォニーホール
〈出演〉
指揮:ジョナサン・ノット
チェロ:伊藤文嗣
ヴィオラ:青木篤子
〈プログラム〉
R.シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」 op.35
シベリウス:交響曲第5番 変ホ長調 op.82
●フェスタ サマーミューザ KAWASAKI 2021
東京交響楽団オープニングコンサート
7/22(木・祝) 15:00 ミューザ川崎シンフォニーホール
(14:00開場/14:20~14:40プレトーク)
〈出演〉
指揮:ジョナサン・ノット
ピアノ:萩原麻未
〈プログラム〉
三澤 慶:「音楽のまちのファンファーレ」~フェスタ サマーミューザ KAWASAKIに寄せて
ラヴェル(マリウス・コンスタン編):夜のガスパール(管弦楽版)
ヴァレーズ:アルカナ
ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調
ガーシュウィン:パリのアメリカ人