ドン・ジョヴァンニという生き方、その奥底にあるものとは?
世界的なテノーレ・リリコ(抒情的なテノール)として、日本でもたびたび美声を披露しているジュゼッペ・サッバティーニ。現在は指揮者として、欧州各地でプッチーニやマスネ、ベッリーニなどのオペラを振り続ける日々を送っている。その彼が、この夏に藤原歌劇団の本公演に登場し、モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》で指揮台に立つとのこと。いま、マエストロとしてこの名作に向かう心意気を、詳しく尋ねてみた。
「《ドン・ジョヴァンニ》におけるモーツァルトの音楽に、デモーニッシュ(悪魔的)な響きがたびたび出てくることは、誰もが認める特徴でしょう。しかし、その悪魔的な個性とは、宗教的に考えるものではなく、“一人の人間が、自らの心の底の悪に、病的に近づこうとしている”姿を表現するものです。女性を手玉に取る人物像といえば、ヴェルディの《リゴレット》のマントヴァ公爵もその一人ですが、マントヴァは人生を謳歌するという姿勢が強いのに対して、ドン・ジョヴァンニはあくまでも病的。心を病んだ立場で悪へのアプローチを行います。例えば、第1幕の名アリア〈シャンパンの唄〉の最後に、彼は『自分のリストに翌朝10人は加えるぞ!』と歌いますね。一晩で10人の女性だって? 普通の男の体では無理だよなぁ!(大笑) そこで解釈すると、もしかしたらドン・ジョヴァンニは、肉体的な関係を結ぶよりも、ちょっとキスを盗むといった程度でも良いから、心理的に女性をものにする、落とすことに生きがいを感じていたのかもしれません。だからこそ、女性の心を奪う回数が多ければ多いほど、悦びを感じたのでしょう。この点に鑑みて、人によっては、ドン・ジョヴァンニは実は性的不能者であったかもしれないとする向きもいますね」
なるほど。確かにドン・ジョヴァンニは特異なキャラクター。堂々たる主人公なのに、歌うアリアがどれも短いのも、音作りとして不思議ではある。
「いま、それを言おうと思っていたんだよ!(笑) 音楽面から見て取れるのは、まず、ドン・ジョヴァンニが生き急いでいた人間であるということ。恐らくは、何事にも留まることを知らず、前へ前へと動いた男なのです。恋の罠をひとつ仕掛けた途端、次の女性に目が行くのもそう。だから、ドン・ジョヴァンニの心には、恐らく“過去”が存在しない。目の前の未来しか見ていない。だから彼は反省もしない。そういう生き方をする人物だということが、楽曲の長さと音楽の勢いに間違いなく反映されています。指揮する際はその点も十分考えて臨むつもりです」
話題を変えて、イタリア人から観たモーツァルトの音楽性についても質問を。オーストリア生まれなのに、ダ・ポンテのイタリア語の台本にヴィヴィッドな音楽をつけたこの天才作曲家について、いまのサッバティーニが思うことは?
「僕が主役を歌わせてもらい、録音した《ポントの王ミトリダーテ》は神童が14歳のときに作曲したオペラですが、モーツァルトはその当時すでにイタリア語にほぼ習熟していたと想像します。彼は真の天才。幼少時から高度の教育を受けて旅し、欧州各国で様々なことを勉強したわけですから。まさしく、神が与えし才能を持っていた男です。《ドン・ジョヴァンニ》で特別強く感じるのは、管弦楽の驚くべき密度の高さですね。言葉と音楽の関係をここまで見事に描き切ったのかと感銘を覚えます。例えば、従者レポレッロの〈カタログの歌〉では、彼の“秘めたる笑い声”をファゴットが表現します。それはつまり、淑女のエルヴィーラに対して『うちのご主人様は何より、年若い娘にご執心ですから』という歌詞を先取りして、彼女を嘲る心の声なんですよ。ほかにも、歌のフレーズをオーケストラが反復して合唱のように合いの手を入れるとか、このオペラではオーケストラと舞台との関わりが実に有機的ですね…指揮者としては、この見事な楽譜を忠実に音に移し替えるべく全力を尽くすのみです。キャストも素晴らしいので公演をどうぞお楽しみに!」
取材・文:岸 純信(オペラ研究家) 写真:青柳 聡
(ぶらあぼ2018年6月号より)
【Profile】
イタリア、ローマ生まれ。1987年スポレート音楽祭コンクール優勝。世界的テノール歌手として活躍していたが、2007年より指揮者・声楽指導者に転向。指揮でイタリア、ロシアほか世界各地で活動し、デヴィーアら一流歌手と共演。13年ソフィア歌劇場《ウェルテル》、ノヴァーラにて《マクベス》を指揮し絶賛を浴びた。日本ではサントリーホール・オペラ・アカデミーにて《愛の妙薬》《ラ・ボエーム》等を指揮。サンタ・チェチーリア音楽院、ヴェルディ音楽院等で教鞭を執っている。1991年アッビアティ声楽賞、96年ティト・スキーパ賞等を受賞。
【Information】
藤原歌劇団公演 モーツァルト:オペラ《ドン・ジョヴァンニ》ニュープロダクション
2018.6/30(土)、7/1(日)、7/3(火)各日14:00 日生劇場
7/7(土)14:00 よこすか芸術劇場
指揮:ジュゼッペ・サッバティーニ
演出:岩田達宗
管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
合唱:藤原歌劇団合唱部
出演
ドン・ジョヴァンニ:ニコラ・ウリヴィエーリ(6/30,7/3,7/7)、カルロ・カン(7/1)
ドンナ・アンナ:小川里美(6/30,7/7)、坂口裕子(7/1,7/3)
ドンナ・エルヴィーラ:佐藤亜希子(6/30,7/7)、佐藤康子(7/1,7/3)
ドン・オッターヴィオ:小山陽二郞(6/30,7/7)、中井亮一(7/1,7/3)
騎士長:豊嶋祐壹(6/30,7/7)、東原貞彦(7/1,7/3)
レポレッロ:押川浩士(6/30,7/7)、田中大揮(7/1,7/3)
ゼルリーナ:清水理恵(6/30,7/7)、梅津貴子(7/1,7/3)
マゼット:宮本史利(6/30,7/7)、大塚雄太(7/1,7/3)
問:日本オペラ振興会チケットセンター03-6721-0874
http://www.jof.or.jp/