interview & text:小室敬幸
photos:吉田タカユキ
エレクトーンを通して学んだオーケストラ・サウンド
日本を代表するジャズピアニスト山下洋輔が、自身の新作であるピアノ協奏曲第3番《Explorer(エクスプローラー)》のオーケストレーターとして挾間美帆を抜擢したのは2007年——彼女がまだ大学3年生の頃だった。翌年1月の初演で指揮を務めた佐渡裕からも才能を高く買われ、結果的にこの2人と知遇を得たことが彼女の運命を大きく変えていく。
いまや『ニューズウィーク日本版』で「世界が尊敬する日本人100」に選ばれ、1ページの誌面を割かれるほど、分野を超えて注目される存在にまでなったジャズ作曲家の挾間美帆。今回は彼女のバックグラウンドに深く根を下ろすクラシックとの関係について、じっくりと話を聞いた。
——まずは、最初のクラシック音楽との接点についておうかがいさせてください。父方のお爺様がN響の熱心なファンだったとお聞きしたことがありますが……
転勤族だったので、祖父母の家には頻繁に行っていたわけではないんです。だから、幼い頃にクラシック音楽を聴かせてくれていたのは母親ですね。赤ちゃんが喋りだした頃って一番面白いじゃないですか。日本語にはないような作曲家の名前を発音させるのが面白かったらしくて。3歳ぐらいの時のビデオが残っているんですけれど、母が(ハチャトゥリアン作曲の)〈剣の舞〉をかけて「これ作った人、誰?」と聞くと、(凄く勢いよく)「ハチャットゥリャン!」とドヤ顔で答えている(笑)。
——完全に遊ばれていますね(笑)
その頃、父の転勤で旭川に住んでいたのですが、北海道の冬なんておいそれと外に出られないわけですよ。知人や友達がいるわけでもないので、行くところもない。わんぱく盛りの私は夜もなかなか寝なかったらしく、母親は半分ノイローゼになりながらも、私を育ててくれていて……そんな状況を誤魔化すために、やっていたのだと思います。あと、父親が好きだった初期のビートルズとか、TV番組の「みんなのうた」をかけると踊り狂う子どもだったそうで、それを見て音楽かバレエをやらせようという話になったみたいです。
でも、ずっと転勤してまわることは分かっていたので、行く先々でも同じ習い事が続けられるように……という理由から、3歳でヤマハ音楽教室に通うことになりました。バレエも幼稚園の頃から習いだしたのですが、思うように教室が見つからなかったりして、数ヵ月とか1年とか空いちゃったり。中学受験で一回完全にやめて、そこからは趣味になりましたけれど、20歳ぐらいまでは続けていました。
——そうだったんですね。では引っ越した先でもずっと続けていたヤマハのレッスンの方は、どんなことをしていたのでしょう?
毎年、ヤマハエレクトーンコンクールや、ジュニアオリジナルコンサート(JOC)に出ていたので、エレクトーン中心の生活だったんですよ。ヤマハのカリキュラムで最低限受けなければいけないレッスン以外は、ほぼピアノには触らなかったです。
——コンクールでは、どんな曲を演奏していたんですか?
クラシックばっかりでした。小学校時代は、ほぼ青森で過ごしていたのですが、2年生のときは服部克久さんの曲、3年生はリムスキー=コルサコフの《スペイン奇想曲》、4年生はイベールの《ディヴェルティメント》の〈行列〉〔※全日本大会に出場〕、5年生はレスピーギの《ローマの祭》の〈主顕祭〉〔※全日本大会に出場〕、6年生は東京に引っ越して、受験だったのでお休み。
中学校から新しく習った先生がクラシックはやらない方で。1年生は吹奏楽のフィリップ・スパークの《フィエスタ!》〔※全日本大会で銀賞〕、2年生は自分の曲、3年生はまた吹奏楽で田村文生さんの《かわいい女》〔※全日本大会に出場〕を弾きました。
——なんと田村文生さんとは驚きです!
暗いですよね(笑)。高校生からはまた自分の曲になり、高3までエレクトーンを続けていました〔※高3でまた全日本大会で銀賞〕。周りは誰もがエレクトーンプレイヤー、デモンストレーターになるものだと思っていたので、「辞める!」と言ったときには、皆意外だったようです。
エレクトーンを通して受けた教育には感謝していますし、素晴らしい教育ツールだと今でも思っています。小学3年生のときに《スペイン奇想曲》のオーケストラスコアを見て、それをエレクトーンで弾けるようにする——つまりスコアリーディングの良い勉強になっていたわけですよ。普通、大学生からやりだすようなことを小学生の頃から先生と一緒にやっていたと考えると、凄いことだなと思います。それがなかったら、オーケストラのサウンドが頭の中で鳴ってはいないと思いますし。
でも私はNHKの大河ドラマが大好きだったので、大河ドラマみたいな音楽を作れる作曲家になりたいと小学生の頃から思っていて。演奏家になるつもりはなかったんです。だからエレクトーンプレイヤーにも、ジャズピアニストにもなろうと思ったことは全くありません。
——中学校の頃にピアノ科にいたのは、あくまで作曲科がなかったからですね。
そうです。中学を受験したのは母親の判断が大きかったと思うのですが、いちばんの理由は、このままずっと転校生として公立学校に通う生活で大丈夫なのか? という危機感だったのかなと。当時、いじめが社会問題化していたという事情もあったかと思います〔※1996年1月にいじめによる自殺が続き、当時の文部大臣が緊急アピールを発表している〕。
小学6年生の春にたまたま父が青梅市に転勤になって、青梅からちょっと行ったところに「音楽だけをやっていればいい学校があるらしい」と聞きつけて、すがるような気持ちで受験することにしたんです。急遽、国語と算数だけ塾に通うことにしたのですが、小学6年生から塾に通いたいといったら最初は塾の先生に鼻で笑われて、母がシュンとして帰ってきたり……。
——ご苦労が多かったのですね。入試ではエレクトーンではなくピアノを弾かれたわけですけど、すぐに楽器の違いには対応できましたか?
全く駄目でした。青森のヤマハの偉い先生がたまたま国立音楽大学の出身だったので、そこから何とか伝を頼って紹介していただいたのが付属中の校長先生で(笑)。その校長先生が紹介してくださったピアノの先生のところに行ったとき、「何か弾いてごらん!」と言われ、いまとなってはなんと恐ろしい音がしたであろうショパンのワルツ第9番(《告別》)を演奏して……。
そこからリハビリのように手取り足取り教えてもらったのですが、ピアノも嫌いにならずにすんだのは素晴らしい先生のお陰です。入試後も中高の6年間お世話になりました。ピアノは高校から副科になってしまったわけですけれど、副科同士で知り合った弦とか管の子たちの伴奏をするのが面白かったんですよ。エレクトーンでもアンサンブルをしていましたから、ひとりで弾くより好きなんでしょうね。
——エレクトーンでの経験が、挾間さんの根幹を形作っているということがよく分かりました。
ほかにも各分野にエレクトーン出身で活躍されている方が沢山いらっしゃるんですよ。大島ミチルさん、塩谷哲さん、国府弘子さん、桑原あいさんとか……。JOC(ジュニアオリジナルコンサート)だとピアノで上原ひろみさん、上原彩子さん、三浦友理枝さんとかもいましたし、他にもConischさん、大嵜慶子さん(Vanilla Mood)などもヤマハ出身ですね。
——改めて、ヤマハが音楽教育機関として大きな役割を果たしてきたことを感じずにはいられません。挾間さんはエレクトーンを通してオーケストラのサウンドを学んでこられたわけですが、実際にオーケストラ作品を初めて書いたのはいつ頃だったのですか?
高校3年生ですね。国立音楽大学の附属高校では作曲科の学生は、副科としてチェロかコントラバスを習って、オーケストラに乗らなきゃいけなかったんです。私はチェロをとったんですけれど、全然上手にならないからエア・ギターならぬエア・チェロですよ(笑)。それでハイドンのトランペット協奏曲、チャイコフスキーやブルッフのヴァイオリン協奏曲など……。
——明らかに習いだしたばかりの身にとっては難しすぎますね。
でも、そのオーケストラに乗ってきたご褒美として、高校3年生のときにこのオーケストラか吹奏楽のために何か書くと演奏してもらえたんです。それが最初のオーケストラ作品でした。吉松隆さんの交響曲第1番(《カムイチカプ交響曲》)の第2楽章(WATER 古風なる夢を紡ぐ優しきもの。)が死ぬほど好きで、いま聴き返したら「そのまんまじゃん!」というような曲なんですけれどね。
大学に入ると逆にオーケストラ曲を書く機会は、ほぼ無くて。大学4年の卒業作品はオーケストラでしたけれど、それ以外に自分のオーケストラ作品はなかなか書かせてもらえなかったです。
——では、大学3年生のときに山下洋輔さんのピアノ協奏曲第3番《Explorer》のオーケストレーションを担当されたときには、ほとんどオーケストラを書いた経験がないまま取り組まれたと!?
授業の一環で、アレンジした譜面が音になるという経験は少しありましたけれど、それくらいですね。オーケストラのサウンド自体は9歳の頃から叩き込まれてきたわけですから、大学のオーケストレーションの授業は全部寝てたんですよ。いま思うと本当に悪い学生で、つまんないと思った授業はワザと一番前で寝ていた嫌な生徒だったんです(笑)。けれど、それぐらいオーケストレーションには当時から自信がありました。逆に今でも吹奏楽とビッグバンドは、そもそもデフォルトでは頭のなかに鳴らないんですよ。
——え?ビッグバンドもですか!?
全く鳴らないです。あんまり聴いて育っていないので。
——では、何を書くときでもまずはオーケストラで鳴ると。
そうです。オーケストレーションの影響を受けたのはレスピーギに……、レスピーギに、レスピーギ(笑)。レスピーギの《ローマの祭》と《ローマの松》だけで、頭のなかが成り立っている気がする(笑)。曲自体も天才的だと思っているんですけれど、曲はさすがに凄すぎて真似できないので、楽譜を見れば分かるオーケストレーションをお手本にしています。
——挾間さんから見て、レスピーギのオーケストレーションは何が凄いのでしょう?
ひとつも欠けてはいけないところです。楽譜をみると楽器の数も、音の数も多いのでガチャガチャするんじゃないかなと思いきや全然しない。しかも、ひとつパートが無くなると「何かが足りない!」と感じるところが凄いところだと思います。ラヴェルにも同じことが言えますけれど、ラヴェルは楽器のことを熟知しすぎていて、演奏法まで完全に網羅した書き方ができているので、そう簡単に真似できない。それはそれでぶっ飛んでいて凄いと思うんですけど、レスピーギはオーソドックスな演奏の仕方で、どういうカラーの組み合わせが出来るかということを追求しているんです。
——だからこそ大学生の時点からオーケストレーションに自信があったわけですね! でも、それで他の編成を書く時には困る場合もあるんじゃないですか?
そうなんですよ! コンポーザー・イン・レジデンスを務めているシエナ・ウインド・オーケストラのお陰でかなり慣れましたけど、頭のなかで弦楽器がザンザンザンザン……と刻んでいるサウンドが鳴っているときに、吹奏楽のクラリネット9人でどうやろうと?(笑)。ビッグバンドでもそれと同じようなことが起きています。
——どんな編成でも、挾間さんの作品の根幹にはオーケストラのサウンドがあるわけですね。
Part2に続く
Profile
挾間美帆(Miho Hazama)
国立音楽大学およびマンハッタン音楽院大学院卒業。これまでに山下洋輔、坂本龍一、 鷺巣詩郎、テレビ朝日「題名のない音楽会」、NHK交響楽団、ヤマハ吹奏楽団など多岐にわたり作編曲作品を提供する。
2012年『ジャーニー・トゥ・ジャーニー』をリリースし、ジャズ作曲家としてメジャーデビュー。16年には米ダウンビート誌“未来を担う25人のジャズアーティスト”に選出されるなど、高い評価を得る。18年、最新作『ダンサー・イン・ノーホエア』を発表。19年ニューズウィーク日本版「世界が尊敬する日本人100」に選ばれる。
14年、第24回出光音楽賞受賞。17年シエナ・ウインド・オーケストラのコンポーザー・イン・レジデンスに、18年にはオーケストラ・アンサンブル金沢のコンポーザー・オブ・ザ・イヤーに、さらに19年シーズンからデンマークラジオ・ビッグバンドの首席指揮者に就任。
Information
NEO SYMPHONIC JAZZ at 芸劇
2019.8/30(金)19:00
東京芸術劇場 コンサートホール
構成・作編曲:挾間美帆
出演
指揮:原田慶太楼
ピアノ:シャイ・マエストロ*
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
曲目
ジョージ・ガーシュウィン/『ガール・クレージー』序曲
クラウス・オガーマン/『シンフォニック・ダンス』から第1楽章、第3楽章
ヴィンス・メンドーサ/インプロンプチュ
レナード・バーンスタイン/『オン・ザ・タウン』から「3つのダンス・エピソード」
シャイ・マエストロ(挾間美帆編曲)/ザ・フォーガットン・ヴィレッジ* ほか
挾間美帆/ピアノ協奏曲第1番*(東京芸術劇場委嘱作品・世界初演)
問:東京芸術劇場ボックスオフィス0570-010-296
http://www.geigeki.jp/
http://www.geigeki.jp/performance/concert183/