ショパンコンクール第3位 ズートン・ワン日本ツアー 東京公演レポート〜しなやかな技巧が導く豊かなカンタービレ

文:長井進之介
写真:松尾淳一郎

 第19回ショパン国際ピアノコンクールでその音色と音楽性によって世界的に注目を集めたピアニストのズートン・ワン。9月14日、東京オペラシティ コンサートホールで彼女が“いま最も演奏したい”作品を集めたリサイタルが行われた。チケット完売となった会場は、開演前から高い期待感に包まれていた。

 以前から感じていたことだが、ワンの演奏の最大の特徴の一つは、その自然な身体の使い方にある。肩や腕、指先に至るまで全く力みを感じさせず、音が無理なく鍵盤から解き放たれていく。結果、生まれる響きは実に素直で豊かだ。音色を作り込むというより、楽器そのものが最も美しく鳴る状態を引き出している。その特質は、冒頭の「夜想曲第3番」から発揮されていた。ゆったりとしたテンポの中で、慈しむように一音一音丁寧に奏でられ、響きが花開くように会場を包み込んでいく。歌われる旋律は決して押しつけがましくなく、聴き手に自然に寄り添うようであり、装飾音は羽が舞うような軽やかさを保ちながら主旋律に自然に溶け込む。「歌うこと」そのものが表現の中心にあることが感じられた。

 シューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」では、そのアプローチがやや異なる方向へ向かう。感情の起伏を過度に強調するのではなく、むしろ作品全体を俯瞰する視点から構築。各曲の性格や色彩は鮮やかに描き分けながらも、常に舞曲としてのリズムの生命力が前面に置かれている。シューマンの内面的な感情を直接吐露するというより、少し距離を置いて整理し、大きな流れの中で統合していくようであった。その結果、作品の構造や多様な表情が鮮やかに浮かび上がってきた。こうした構築力はショパンコンクールでのピアノ・ソナタ第2番の演奏と通じるものがあった。

 後半のショパンの4つの即興曲は、ワンの歌心がさらに引き立つ選曲だ。第1番は快速なテンポで進みながらも、柔軟なアゴーギクとフレージングによって、まさにその場で音楽が生み出されているかのような即興性が感じられた。
 第2番は行進曲的な性格を強調し、重厚な足取りを描き出しつつも、コーダの急速なパッセージでは驚くほどしなやかなタッチを披露した。
 第3番では彼女の多彩な音色が存分に発揮され、息の長い旋律線が大きな弧を描くように歌われた。
 第4番「幻想即興曲」では輝かしい音色と急速なパッセージが鮮烈な印象を残したが、そこでも聴き手の耳を引きつけたのは指の速さではなく旋律を奏でる美しさであった。中間部でもやはり彼女のみずみずしさを感じさせる歌い回しが光り、作品の抒情的な側面を存分に浮かび上がらせていた。

 プログラムの最後を飾ったのはリスト(ブゾーニ編)「モーツァルト《フィガロの結婚》の主題による幻想曲」。膨大な音数の掌握と超絶技巧を要求する難曲だが、ワンの演奏では難所がまったくそうと感じられない。あまりにも自然な旋律線ですべてが流れるように奏されていく。そのため、聴き手の意識は技巧そのものではなく、原曲の旋律がもつ魅力とその自在な展開へと自然に向かう。それを可能にしているのは、これほどの難曲にあっても彼女が徹底して「歌う」ことへの強い意識をもっているからである。目まぐるしく変化する主題や性格の異なるキャラクターを鮮やかに描き分け、どれほど音数が増えても旋律の輪郭が失われない。超絶技巧はあくまでも表現の手段でしかない、ということを改めて感じさせてくれた。こうした姿勢は、アンコールで演奏されたショパン(リスト編曲)の歌曲2曲にも一貫して見られた。

 楽曲を俯瞰しまとめあげる構築力、超絶技巧をも包み込む深い歌心、そしてそれらを支える自然な身体の使い方と、今回のリサイタルは、ズートン・ワンが持つポテンシャルを余すところなく示すとともに、現代のヴィルトゥオーゾの一つの理想形を提示した演奏会であった。ワンの演奏は聴衆の心を強く掴み、演奏ごとに送られた惜しみない拍手がそれを雄弁に物語っていた。さらに終演後のサイン会には長い列ができ、この日の演奏会が特別な時間であったことを改めて印象づけた。

【Concert Information】
ズートン・ワン ピアノ・リサイタル
2026.9/14(月)19:00 東京オペラシティ コンサートホール

曲目/
ショパン:夜想曲第3番 ロ長調 op.9-3
シューマン:ダヴィッド同盟舞曲集 op.6
ショパン:即興曲第1番 変イ長調 op.29
ショパン:即興曲第2番 嬰ヘ長調 op.36
ショパン:即興曲第3番 変ト長調 op.51
ショパン:即興曲第4番 嬰ハ短調 op.66《幻想即興曲》
リスト(ブゾーニ編):モーツァルト「フィガロの結婚」の主題による幻想曲 S.697
[アンコール]
ショパン(リスト編):「6つのポーランドの歌」より第5曲〈私のいとしい人〉、第1曲〈乙女の願い〉

オフィス山根
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長井進之介 Shinnosuke Nagai

国立音楽大学大学院修士課程器楽専攻(伴奏)修了を経て、同大学院博士後期課程音楽学領域単位取得。在学中、カールスルーエ音楽大学に交換留学。アンサンブルを中心にコンサートやレコーディングを行っており、2007年度〈柴田南雄音楽評論賞〉奨励賞受賞(史上最年少)を機に音楽ライターとして活動を開始。現在、群馬大学共同教育学部音楽教育講座非常勤講師、国立音楽大学大学院伴奏助手、インターネットラジオ「OTTAVA」プレゼンターも務める。
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