
ロシアに生まれ育ち、1997年からは日本を拠点に活動を続ける、イリーナ・メジューエワ。2027年に日本コンサートデビュー30周年を迎えるが、同年はベートーヴェンの没後200年でもある。そこでベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲、さらにディアベリ変奏曲も加え、豪華な顔ぶれによるプレトーク付きの全6回シリーズ公演に挑む。
「ソナタ全曲演奏を行うのは、これが三度目です。前回、2020年のベートーヴェン生誕250年に向けたシリーズはコロナの影響で公演の半分以上が中止になり不完全燃焼だったので、今回はなんとしても完遂したいと願っています。ベートーヴェンはあまりに偉大で、子どもの頃は怖いイメージでしたが、実際に作品に向き合うと、彼が抱いた理想の高さ、人間的な強さに大変な魅力を感じます」
一昨年の「ショパンの肖像」や昨年の「ラヴェル:ピアノ独奏曲全曲演奏」など、一人の作曲家に集中して取り組むプロジェクトをよく行う彼女。それは「作曲家の精神や考えの全体像を掴むうえで重要だから」だという。
「特にベートーヴェンのソナタ全曲演奏にはとんでもない量の体力と精神力が求められます。しっかり準備をして臨まなくては命を落とすこともあるエベレスト登山のようなものです。32曲は高さも形も異なる山のようで、それぞれに登って見える景色は同じようで違います。また、何度も登ることで見える景色も変わってきます。要は自分自身が変化しているということなのでしょうが、以前は気に留めていなかった細やかな和声の変化や声部の扱いなどがすごく大切に思えるようになったり。畏れ多くて近寄りがたい大作曲家の作業場を覗いているようなおもしろさを感じています」
今回の全曲演奏会では、基本的に出版年代順に取り上げつつ、タイトル付きの有名曲を組み合わせてプログラムを組む。
「第1回ではop.2の1番〜3番と、22番、23番『熱情』を組み合わせます。“小さな『熱情ソナタ』”とも呼ばれる1番で始めて23番『熱情』(同じへ短調!)で締めるという趣向です。1番のソナタにヘ短調というチャレンジングな難しい調性を選ぶところには、実力に相当な自信があったことが窺えます。そこから3番までの間で、普通の作曲家なら10年はかかる大変な進歩が見られるところにも驚きます。
ベートーヴェンは形式が命。一連のソナタでは、ルールを守りながら壊すことを続け、とんでもないものを創り上げました。そうしてたどり着いた後期のソナタは、ポリフォニーが複雑になり、ハーモニーや時間感覚が自由になることで、また違った難しさがあります」
使用されるピアノが1925年製のニューヨーク・スタインウェイだということも、注目のポイントだ。
「100歳超とは思えない、倍音たっぷりでとてもパワフルな、すばらしい楽器です。例えるならF1のレーシングカーのようで、アクセルを踏んだら一気に300キロまで加速するイメージ。とても敏感で、日によって調子が変わるのも楽器が『生きている』証だと思います。関係性としては、弾き手よりも完全にピアノの方が偉いという状態。楽器からより良い響きを引き出すべく努力するのですが、一方で『こんなふうに歌ってみたら』と楽器から教えられるところもあって、その対話も含めておもしろいんです」
公演当日、楽器のご機嫌が良ければ、「滅多に出会えない音を聴くことができる」というメジューエワ。作曲家とヴィンテージ楽器という、偉大な二つの存在に挑む。
取材・文:高坂はる香
(ぶらあぼ2026年6月号より)
イリーナ・メジューエワ
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全32曲+ディアベリ変奏曲 演奏会〈全6回〉 1st Half
第1回:《熱情》 2026.9/13(日)14:00
第2回:《悲愴》《ワルトシュタイン》 2027.1/23(土)14:00
第3回:《月光》《葬送》~ベートーヴェン200回目の命日に~ 2027.3/26(金)19:00
浜離宮朝日ホール
問:contact@officeyamane.net(オフィス山根)
https://officeyamane.net

高坂はる香 Haruka Kosaka
大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動。雑誌やCDブックレット、コンクール公式サイトやWeb媒体で記事を執筆。また、ポーランド、ロシア、アメリカなどで国際ピアノコンクールの現地取材を行い、ウェブサイトなどで現地レポートを配信している。
現在も定期的にインドを訪れ、西洋クラシック音楽とインドを結びつけたプロジェクトを計画中。
著書に「キンノヒマワリ ピアニスト中村紘子の記憶」(集英社刊)。
HP「ピアノの惑星ジャーナル」http://www.piano-planet.com/
