モーツァルトの演奏史に新たな一ページを記す—濱田芳通&アントネッロ《レクイエム》|公演レビュー

 濱田芳通とアントネッロがついに古典派の作品に取り組んだ。モーツァルトの《レクイエム》である。まずプログラムが興味深い。ジュスマイヤー版「レクイエム」をメインに交響曲第41番《ジュピター》と4曲の声楽曲で、声楽曲は交響曲の前と楽章間で演奏される。18世紀のコンサートを彷彿とさせるが、曲たちは音楽面・精神面で複合的に関連づけられる。

濱田芳通 ©松尾淳一郎

 たとえば、バスのアリエッタ《手に口づけ》が「ジュピター」の第1楽章の前に演奏されるのは、前者の旋律が後者に引用されているからだし、そもそも「ジュピター」と「レクイエム」はともに作曲家晩年の作品であり、交響曲は終楽章のフーガの主題からモーツァルトの信仰告白と見なしうる。この旋律はグレゴリオ聖歌の《輝ける創造主》に由来し、モーツァルトはミサ・ブレヴィス K.192のクレド(私は信じます)などで用いているからだ。そしてまた、《天の元后》を始めとする三つの声楽曲における少年時代のモーツァルトの無垢な信仰心が、「レクイエム」の死を目前にした晩年のそれと二重写しとなる。

 一曲目のアリエッタのソロを歌うのは松井永太郎。ブッフォ(コミカル)なアリアらしく、豊かなバスで惚けた味わいながらオーケストラは野趣に富む。そこから「ジュピター」の第1楽章。アリエッタの野性味をそのまま引き継いでダイナミックかつ躍動感に溢れると同時に、副主題などで随所にルバートを施し、下行のポルタメントがなんともいえない表情をもたらす。

©松尾淳一郎

 これに続くのは、《天の元后》の〈私たちのために祈ってください〉。中川詩歩がビロードの光沢を帯びた豊かな量感のソプラノで聖母への願いを歌い、「ジュピター」の第2楽章はレトリカルで意味深い休符とルバートが多様な趣と彩りを添える。モテット《踊れ喜べ幸いなる魂よ》からの〈アレルヤ〉ではソプラノの中山美紀が明るく軽やかな美声で即興的な装飾的パッセージをふんだんに盛り込んだ見事なコロラトゥーラを聴かせ、第3楽章は速めのテンポでヘミオラがスリリング。さらにオラトリオ《解放されたベトゥーリア》からのアリアで中嶋克彦が伸びやかなテノールで神への慈悲を乞い、「ジュピター」の終楽章、透き通るようなヴァイオリンの「クレド」の主題が壮麗なフーガとなって、凄まじい推進力とともに天へと駆け抜けていく。

 休憩を挟んで「レクイエム」。1曲目はかなり遅いテンポで始めて徐々にテンポを上げ、永遠の安息を「授けてください」の「ドナ Dona(授けて)」を強調。「ディエス・イレ Dies irae(怒りの日)」の合唱はホールを震撼させるほどの本気度満点の熱唱だ。濱田はここでも曲の情感(アフェクト)に従って柔軟にアゴーギクを施し、音楽を生き生きと息づかせる。「トゥーバ・ミルム Tuba mirum(驚くべきラッパが)」の後半、最後の審判を前にした者の孤独と心の震え、「レックス・トレメンデ Rex tremende(恐るべき王よ)」の冒頭「レックス Rex(王よ)」の叫び、旋回しながら静かに舞い降りるヴァイオリンとともに歌われる四重唱の哀切。「コンフターティス Confutatis(黙らせるとき)」の緊迫感と、不義なる者を炎にくべるときに祝福された人々とともに「私をお呼びください」と神に懇願するときのかそけきソット・ヴォーチェ。啜り泣きのような、これ以上ないほどの最弱音で歌い出される絶筆「ラクリモーサ Lacrimosa(涙の日)」。

アントネッロ ©松尾淳一郎

 ここで調弦してしばらく間を置いて再開。「オッフェルトリウム Offertorium(奉献唱)」は速いテンポで力強く歌い進め、「ホスティアス Hostias(賛美のいけにえを)」の主への呼びかけの柔和な表情。「クオアム・オリム Quam olim(かつてあなたがアブラハムとその子孫に約束なさったように)」で音楽はさらにエネルギーと前進力を増す。ここでやはり少年時代のモーツァルトの3声の独唱とオルガンによる《ミゼレーレ、神よ、私を憐れんで下さい》の一曲目が歌われる。そこから神への賛美の「サンクトゥス Sanctus」や「ベネディクトゥス Benedictus」へと続くが、これらの曲でも歌詞と音楽のアフェクトに従って表情を印象深く変化させる。「アニュス・デイ Agnus Dei(神の子羊)」の苦悩と哀切、フレーズの終りの祈りに似た沈黙。「レクイエム・エテルナム ドナ・エイス・ドミネ Requiem aeternam, dona eis Domine (主よ、彼らに永遠の安息を授けてください)」の合唱は荘厳な輝きを帯び、最後の「コムニオ Communio(聖体拝領唱)」のソプラノのソロはまさに「永遠の光」の清らかさだ。そして「クム・サンクティス Cum sanctis(あなたの聖人たちとともに永遠に、あなたは慈悲深き方なのですから)」の激しい躍動。畳みかけるような強烈なビート感とパッションは濱田とアントネッロの真骨頂だ。こうして圧倒的な神への呼びかけとともに曲は閉じられた。音が鳴り止んだとたんに拍手が来て、その後濱田が客席を振りむいて改めて怒涛の拍手が沸き起き、強い緊張から解き放たれた後のような晴れやかな幸福感がホールを包み込んだ。どの曲の演奏も比類がなく驚きの連続で、モーツァルトの《レクイエム》の演奏史に新たな一ページを記す事件ともいえるコンサートだった。

文:那須田務

【Concert Information】
濱田芳通&アントネッロ第21回定期公演

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト「レクイエム」
2026.3/28(土)14:00開演 第一生命ホール

♪アリエッタ《手に口づけ》K.541 
 松井永太郎(バス)
♪交響曲第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」第1楽章
♪《天の元后》K.108より〈私たちのために祈ってください〉
 中川詩歩(ソプラノ)
♪交響曲第41番 第2楽章
♪モテット《踊れ喜べ幸いなる魂よ》K.165より〈アレルヤ〉
 中山美紀(ソプラノ)
♪交響曲第41番 第3楽章
♪オラトリオ《解放されたペトゥーリア》K.118より アリア〈お怒りでしたら、慈悲を下さい〉
 独唱:中嶋克彦(テノール) 合唱:鈴木麻琴、中嶋俊晴、田尻健、清水健太郎
♪交響曲第41番 第4楽章
*****
♪レクイエム ニ短調 K.626(ジュスマイヤー補筆版)
 イントロイトゥス、キリエ、セクエンツィア、オッフェルトリウム
♪ミゼレーレ イ短調 K.85より 第1節「神よ、私を憐れんで下さい」
♪レクイエム ニ短調 K.626(ジュスマイヤー補筆版)
 サンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュス・デイ、コムーニオ

指揮:濱田芳通
声楽・管弦楽:アントネッロ
 ソプラノ 金沢貴恵、今野沙知恵 、鈴木麻琴、中川詩歩、中山美紀
 アルト 高橋幸恵、中嶋俊晴、新田壮人、野間愛
 テノール 川野貴之、小沼俊太郎、田尻健、中嶋克彦
 バス 清水健太郎、牧山亮、松井永太郎、山本悠尋
 フルート 柴田俊幸
 オーボエ 小花恭佳、小野智子
 バセットホルン 満江菜穂子、戸田竜太郎
 ファゴット 長谷川太郎、鈴木禎
 ホルン 塚田聡、五十畑勉
 トランペット 斎藤秀範、金子美保
 トロンボーン 南紘平、野村美樹、石原左近
 ティンパニ 井手上達
 ヴァイオリン 天野寿彦、阪永珠水、廣海史帆、大光嘉理人、髙岸卓人、堀内麻貴、長山恵理子、瀬下莉瑚
 ヴィオラ 伴野剛、本田梨紗、福田道子
 チェロ 武澤秀平、山根風仁
 コントラバス 布施砂丘彦
 オルガン 谷本喜基

【次回公演案内】
濱田芳通&アントネッロ第22回定期公演「時と悟りの勝利」
2026.6/13(土)14:00 第一生命ホール

曲目
G.F.ヘンデル:オラトリオ《時と悟りの勝利》HWV 46a

問:アントネッロ info@anthonello.com
https://www.anthonello.com

【濱田芳通 出演公演】
神奈川フィルハーモニー管弦楽団 音楽堂シリーズ第36回
2026.5/30(土)15:00 神奈川県立音楽堂


出演
濱田芳通(リコーダー・指揮)
織田優子(リコーダー)
上羽剛史(チェンバロ)
高本一郎(リュート)
中山美紀(ソプラノ)
黒田京子(ピアノ)

曲目
J.S.バッハ/管弦楽組曲第3番 ニ長調 BWV1068
J.S.バッハ/ブランデンブルク協奏曲第4番 ト長調 BWV1049
ヘンデル/歌劇「リナルド」より”恐るべき鬼女たちよ”
ヘンデル/歌劇「ジュリオ・チェーザレ」より“難破した船が嵐から”
野見祐二/くもりのちはれ リコーダー、ピアノと弦楽合奏のための新作委嘱作品(世界初演)
ヘンデル/組曲「水上の音楽」より

問:神奈川フィル・チケットサービス045-226-5107
https://www.kanaphil.or.jp