
2022年ジュネーヴ国際音楽コンクール入賞を機に、活躍の場を広げる五十嵐薫子。エレガントな佇まいからは想像できないほどの、力強くしなやかでスケールの大きな音楽性を持つピアニストだ。
今年から東京で行う全3回のリサイタルでは、「彼方からの声と、応える声」をテーマに、彼女が音楽家として使命と感じていることに取り組む。
「生の音楽に触れて感動するのはどんな時か考えたら、それは普段自分の表に出ていない感情が引き出された時だと気づきました。そんな場を提供したいという想いがあります」
この考えはかねて彼女の中にあったものだが、前述のジュネーヴコンクールで自らプログラムノートを執筆する課題があったことで、改めて言語化して認識することになったという。
「落ち込んでいても、すばらしい演奏を聴くとエネルギーが100万倍になります。自分もそれができる演奏家になりたい。では何がしたいのか、本質をつきつめたら、それは“人が内に秘めた声を解放してあげる”ことだと気づきました」
第1回には「自分はこういう者だとつまびらかにする」作品を選んだ。
「始まりはJ.S.バッハ。原始的な部分に立ち返るような音楽で、心の奥底にあるもの、感情にもならないものまで出てくるところが大好きです」
その後はあの世を感じる作品。ショパン「葬送ソナタ」に加え、ラヴェル「クープランの墓」とムソルグスキー「展覧会の絵」という「近しい人の死に影響を受けて書かれた」曲が続く。
「死には悲しく怖いイメージがあるかもしれませんが、私が注目したいのは、今は亡き人々が作品を通じて現代まで我々にエネルギーをくれている側面。そんな“彼方からの声”を受け、私たち一人ひとりからどんな“声”が立ち上がるのかを見てみたいのです」
特に「展覧会の絵」はずっと弾きたかったレパートリーだ。
「子どもの頃に聴いたときは楽しい曲だと思いましたが、後から、そこに亡くなった友へのさまざまな視点がある作品だと知りました。他の曲と少し違うのは、あの世の人の声だけでなく、まだ生きている人間、つまりプロムナードを歩くムソルグスキーの視点も共存していること。最後に2つの視点が『キエフの大門』で合わさり、解放に向かう。その流れを表現するため、多様なキャラクターの小品をどう一貫性を持たせ融合させていくか、試行錯誤しています」
続く回についてもすでに構想がある。
「第2回のテーマは踊りや祭り。この前学生時代のノートを見返したら、〈芸術とはあの世に行って帰ってくること〉というメモがあり、確かにそういうものかもしれないと思いました。あの世とこの世の境界が薄くなる舞踊や祭りにまつわる作品で、その世界に近づきたいです」
実は底抜けに明るい作品が苦手で、どこか苦悩を感じる音楽に共感するという五十嵐。第3回は「『第九』に匹敵する偉大なピアノ作品」だと感じているベートーヴェン「ハンマークラヴィーア」で締めることに決めている。
「自分がやりたかったことは何だったのかを思い出すため、本などは気に入ったものを何度も読むタイプ。ベートーヴェンが遺した『ハイリゲンシュタットの遺書』も時々読み返すと、“ベートーヴェン様の苦悩に比べたら私ごときの悩みで弱音を吐いている場合ではない”という気持ちになるんです」
公演を聴き終えたとき、「前とは違う声が聞こえ、自分の中にこんな気持ちがあったのだと思ってもらえたら」と意気込む。
取材・文:高坂はる香
(ぶらあぼ2026年6月号より)
五十嵐薫子 ピアノ・リサイタル
2026.7/26(日)14:00 浜離宮朝日ホール
問:カジモト・イープラス 050-3185-6728
https://www.kajimotomusic.com
他公演
2026.8/11(水・祝)名古屋/電気文化会館 ザ・コンサートホール(クラシック名古屋052-678-5310)
2026.9/19(土)長野/サントミューゼ上田市交流文化芸術センター(小)(0268-27-2000)6/20(土)発売

高坂はる香 Haruka Kosaka
大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動。雑誌やCDブックレット、コンクール公式サイトやWeb媒体で記事を執筆。また、ポーランド、ロシア、アメリカなどで国際ピアノコンクールの現地取材を行い、ウェブサイトなどで現地レポートを配信している。
現在も定期的にインドを訪れ、西洋クラシック音楽とインドを結びつけたプロジェクトを計画中。
著書に「キンノヒマワリ ピアニスト中村紘子の記憶」(集英社刊)。
HP「ピアノの惑星ジャーナル」http://www.piano-planet.com/
