新国立劇場が2025/26年シーズンの締めくくりに、6月末からリヒャルト・シュトラウスの《エレクトラ》を新制作で上演する。大野和士芸術監督がかねてより上演に注力している20世紀オペラ、その傑作を自ら指揮し、演出には劇場初登場となるヨハネス・エラートを迎える。エレクトラ役にはドイツを中心に躍進中のアイレ・アッソーニ、母クリテムネストラ役に現代最高のメゾソプラノの藤村実穂子、弟オレストにワーグナー歌手として著名なエギルス・シリンスなど、歌手陣も万全のキャスティングだ。新国立劇場には2024年のワーグナー《トリスタンとイゾルデ》に続く登場となる藤村に、異様なまでの緊迫感に満ちたこのオペラの魅力と今回の舞台への期待を訊いた。

新国立劇場で大野和士芸術監督が指揮する作品への出演は、《エレクトラ》で3作目となる
R.シュトラウスとホフマンスタールのコンビによる第一作となった《エレクトラ》は、憎しみや復讐といった感情が支配する凄惨なストーリーのオペラである。そのような負の感情は私たちが完全に逃れるのが難しいものであり、また現在の世界を覆っている空気のようにも思える。ギリシャ神話を題材にしたこのオペラのドラマの核心ともいえる娘エレクトラとの対話において、クリテムネストラを演じる藤村が、特に心理面の描写において心がけていることは何だろうか。
「私は演じるという言葉が以前から好きでなくて、舞台でその人間として『ありたい』と思っています。クリテムネストラが愛人に夫を殺させた原因は何だったかを探ると、考えさせられてしまいます。まずアガメムノンはいとこのタンタロスを殺して、その妻であったクリテムネストラを自分の妻にしてしまいます。なのに自分と同じ様に他者の妻を奪ったパリスに怒り、トロイア戦争を仕掛けますが、戦争船にとって良い風が吹かないため、自分の娘イフィゲニアを生け贄にしようとします。元々の夫を殺され、腹を痛めた自身の娘をも殺される母クリテムネストラの気持ちは一体どうなのでしょうか? 自分の元夫、娘を生贄にする夫をどう思えばよいのでしょうか? 妻であり母であるクリテムネストラのエレクトラへの言葉『お前は賢いから知っているはず』は、そういう夫、父を殺さざるを得なかった気持ちを、『お前なら分かるよね』、と言いたかったのかもしれません。なにしろシュトラウスが採用しなかった、クリテムネストラの『今、アガメムノンがいたら、家族としてうまくいっていたかも』というホフマンスタールのテキストが存在したのは事実です。そして思うのです。この世に問題の無い家族はあり得るのか、と」

これまでハンブルク等の歌劇場で歌うなど、藤村はクリテムネストラをかねてから確固たるレパートリーにしている。メゾソプラノのヴァルトラウト・マイアーが2023年の引退公演でこの役を選んだことでも窺われるように、過去に名だたる歌手が歌ってきた。ドイツのオペラ界・声楽界の最前線にいる藤村は、クリテムネストラという役の重みというものをどう見ているのだろうか。
「ヨーロッパの歌劇場ではこの役を歌うのはこういう声の人というのがはっきりしています。日本も早くそういう声による役分けが広まらないと、歌手の使い捨てがもっと酷くなるのではないかと危惧しています。そういう意味でもこのクリテムネストラと、チャイコフスキーの《スペードの女王》の伯爵夫人などは、舞台数の多い経験豊富なメゾやアルトが歌う役です。楽譜を暗譜した、或いは、今日多い『録音をコピーして覚えました』と舞台に立って歌う役では、決してありません」
藤村は、日本ではすでに2024年の東京・春・音楽祭におけるセバスティアン・ヴァイグレ指揮・読売日本交響楽団の《エレクトラ》演奏会形式上演で、クリテムネストラ役を披露している。今回は舞台上演ということで、歌唱とともに、演出や舞台での在り方、佇まいにも注目が集まるはずだ。演出家のヨハネス・エラートとの共同作業について期待するものは?

提供:新国立劇場
「エラートさんは、日本でもおなじみの元ウィーン・フィルのコンマス、ライナー・キュッヒルさんについてヴァイオリンを学び、ウィーン・フォルクスオーパーで弾きながら、ウィーン・フィルのアカデミーにいらして演出に変わったという、非常に珍しい経歴をお持ちです。コンセプトについてかなり長くお話させていただいたのですが、音楽的アプローチ、つまり楽譜とテキストからもっていかれる方かなと思い、非常に楽しみにしています」
藤村実穂子という歌手で筆者が真っ先に思い出すのは、2022年8月に広島で聴いた広島交響楽団の「平和の夕べ」コンサートでのこと。マーラーの交響曲第3番で、藤村が第4楽章の歌詞を歌い始めた瞬間、ホールの空気が一瞬で変わり、穏やかで満たされた感情に包まれたのを鮮やかに記憶している。こんな個人的な思い出を伝えると、彼女の歌い手としての姿勢がにじみ出たような答えが返ってきた。
「そういう風に言われることが多くて、非常に嬉しいです。ただ、3番の歌い始めの歌詞はニーチェがこだわった『深淵』の深さについてです。人間は10億人いたら10億以上のやっかいな問題を抱えていて、それは底なし穴のようなもの。これを一旦自身の体に体験として受け止めてから歌いたいと思っています」
取材・文:中村真人

撮影:寺司正彦
新国立劇場オペラ 2025/26シーズン
リヒャルト・シュトラウス《エレクトラ》新制作
全1幕(ドイツ語上演/日本語及び英語字幕付)
2026.6/29(月)19:00
7/2(木)、7/5(日)、7/8(水)、 7/12(日)各日14:00
新国立劇場 オペラパレス
指揮:大野和士
演出:ヨハネス・エラート
美術:ハイケ・シェーレ
衣裳:ノエル・ブランパン
照明:オラフ・フレーゼ
映像:ビビ・アベル
クリテムネストラ:藤村実穂子
エレクトラ:アイレ・アッソーニ
クリソテミス:ヘドヴィグ・ハウゲルド
エギスト:工藤和真
オレスト:エギルス・シリンス
オレストの養育者:斉木健詞
クリテムネストラの腹心の侍女:中村真紀
クリテムネストラの裳裾持ちの女:杉山由紀
若い下僕:糸賀修平
年老いた下僕:河野鉄平
監視の女:森谷真理
第1の下女:金子美香
第2の下女:谷口睦美
第3の下女:清水華澄
第4の下女:髙橋絵理
第5の下女:田崎尚美
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
問:新国立劇場ボックスオフィス03-5352-9999
https://www.nntt.jac.go.jp/opera/
https://www.nntt.jac.go.jp/opera/elektra/


