Aからの眺望 #23
音楽の時間

文:青澤隆明

 朝まで起きている。明け方のリヴァプールFCの試合をみて、これから眠るところだが、すぐに寝つけるわけはない。いまは冬で、外はまだ暗いが、そろそろ夜も明けはじめる。
 昼すぎまで眠ってしまう。冬の日が早くも傾きかけてくる。ゆったりと過ごすつもりが、どこかで気が急いてくる。夕方の気配がじわじわと近づいてきているからだ。
 コーヒーを淹れて、昨夜の本の続きを読む。 きょうしめきりの仕事があるのだが、急ぎたくない。しかし、本を読む目がいつのまに急いている。テンポが速い。ゆっくりと読みたい本なのに、なぜか目が急いて、つまりは気が急いているのだ。
 いけない、これではいろいろととり零してしまう。と思って、声を出さずに音読してみるのだが、どうもうまく行かない。
 罪悪感のようなものがある。午後まで眠って、働いていないことへの、早くに仕事にかからなくてはいけないことへの。しかし、なによりも、ほどなく日が暮れてしまう、という焦りのほうが大きい。いまは夏ではないから、夕闇の足は速い。そして、私の足は止まったままで、ページを捲る指と、本を読む目だけが動いている。
 本を読むには、その本にふさわしいテンポがある。しかし、私の生理やそのときどきの心理が、勝手にテンポを乱してしまう。おもに急いてしまうのは、あがり症といっしょだ。
 イン・テンポでないと、曲はいっこうに生きてこないのだった。楽器の響きと空間の大きさというのは、この場合、私の心と身の置かれている場所になるだろうか。
 それで、ふと思い立って、音楽をかける。本の内容とはまず関係がないが、ともかくも、音楽にはテンポがある。できれば、乱れずに、しっかりと歩むものがいい。ときどきの移ろいや変化に揺れながら、たんたんと歩んでくれれば、さらによい。畳みかけるようなものでは、この場合はだめだ。
 歩く速さで、という意味合いで、アンダンテの足どりは、とてもいい。でも、こどもの頃からいつも思っていたことだが、人の歩くテンポは一様ではない。歩幅もちがう。
 旧来のテンポの名づけは、イタリア語の形容詞にもとづいている。形容詞というところがまたやっかいだ。それらはイメージの語彙だからである。
 だから、もちろんメトロノームの表示をみても、そこには一定の幅がある。メトロノームの物差し、そこに刻まれた目盛りによれば、あるテンポは、ひとつの名前をもつテンポと、またべつの名前をもつテンポの間に区切られている。
 とは言っても、しょせんは人間の幅である。人さまざまで、人それぞれといっても、物理的に幅はかぎられている。車の制限速度とは違うし、アスリートの超人的な性能はここでは問われていない。ふつう、というのがまたやっかいであるとしても、音楽に携わる人が通じ合える目じるしであればこと足りる。そして、その音楽に携わる人の想定領域は、いまよりもぐっと狭かった。
 それよりも速くても、遅くでも、またべつの名前を纏うことになる。つまり、記されたテンポの指示を離れてしまう。作曲家がそのときに想定したものから、それだけ隔たってしまう。そのとき作曲する人が頭に描いたテンポが、時代の慣習に沿って記された指示が、作品世界の再現の手がかりとなる。メトロノームが生まれて、流行をみせれば、それは時間を刻む数字を用いたものになり、形容詞よりはぐっと客観的な見ばえになる。しかし、精確にイメージされていたかどうかは疑問である。いちいち計測したとは思えないからだ。
 そんなことをぼんやりと考えながら、目のまえの活字は車窓の風景のように流れていく。なにかを感じとってはいるが、じっくりと滲みこむまでにはいたっていない。もういちど読み返すことになるだろう、と思いながらも、私は自分に降って湧いた考えを止めはしない。曲のおわりまで、ひとまず聴いてみないことには。
 結局は、読書に区切りをつけて、こうしてそのことを綴り出している。それがいいことなのかどうかはわからない。ただ、そうしたい気になったから、というほどのことにすぎない。

 音楽を聴いているあいだだけ、時間というものを生きているような感覚がある――そんなふうに口にしていた人の声が、頭のどこかから響いてきた。遠いところにいる人だが、ときどき会うのが楽しみな歳上の友人である。
 遠いというふうに形容したことを、ひと言で説明するなら、現実的な人間の社会の時間からは大きく隔たった流れを生きている、ということになるだろう。と言って、病気で生と死の境を漂っている、というような悲壮さではないし、なにかの宗教的な時間に属しているという人でもない。
 かんたんに言うと「現実離れした」ということになろうが、それだとやはり、ちょっと違うのだ。現実というものの種類が、もっと遥かな流れからは切り離されてあるから。仙人にとっての俗事、俗世間の出来事というふうな感じで、彼の時間は太陽や月や星や、自然の流れとは溶け込むように繋がっているはずだ。
 つまり、こういうことだろう。音楽を聴いているあいだは、音楽が歩む時間の流れを感じ、そのなかをともに歩みながら、他人の時間との繋がりをもって生きているという感覚が実感できる。つまり、音楽には時間がある。自分を運んでいく、なんらかの流れがある。
 そのようなことを、ふと言葉にしていたのだと思う。べつに考えぬいて、そのような言いかたに結んだのではなく、そのときなにげなく口にしてみた、というだけのことだろう。
 だが、私はと言えば、いまこうして書いてきたように、日が暮れることそれじたいではなく、仕事が捗るまでの時間をもてず、人との約束に乗り遅れてしまう、ということを怖れているばかりの小さな人間だ、少なくともいまは。
 しかし、そのようにして遠回りしながら、自分のテンポでこのような他愛ないことを綴っていられるのは、それにふさわしいテンポをとって、少しずつ変化しながら併行して流れている他者の、私に向かって開かれた時間があるからだ。それは、音楽と呼ばれる。そうしたものの総称であるだけでなく、音楽という質をもつ時間の本質でもある。
 冬の日差しはだいぶ斜めになってきて、ものさびしく枯れた色彩を帯びてきた。その傾きのなかで、私はほとんど止まらずに、この文を歩んできた。音楽には続きがある。こうして、ひとまず書き留めたことで、その曲集の続きを、私はここに記したような言葉にじゃまされずに聴くことができるかもしれない。日が沈むまでには、まだひとときがある。
 お前の夢にふさわしくあれ。――さきほど読みおえた本は、この言葉で結ばれていた。

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。