務川清話 其の一

気楽「論」

と、タイトルに堅苦しく「論」と命名してしまった時点で、既に気楽さの失われてしまったこの状況を、「矛盾のおもしろさ」というようなものに免じてお許し頂きたい。

論より前にまず自己紹介が必要かもしれない。

僕はピアニストの務川慧悟と申します。30歳。ピアニストというだけあって、ピアノを弾くことを主体として生きておりまして、僕の演奏自体は、日本でもある程度各地で頻繁に行わせて頂いている演奏会や、その他音源・動画等にて聴いて頂ける機会があれば、嬉しいですが、ピアノ以外には基本的にあまり何もできぬ僕も、ちょっとした文を書くことは以前から好き、ということもあって、こちらでの連載のお話を頂きました。年4回くらいであろうか。自由なエッセイのスタイルで、書いてゆきたく思います。何しろ「あの」ぶらあぼ上で、なのであるから、尚一層嬉しい。

(c)Yuji Ueno

さてその第1回目から突拍子もないようにも見えるテーマで恐縮であるが、近頃、演奏家としての自分の中でテーマとなっている事柄があって、それが「気楽」である。

ここ数年でいくつかのコンクールに入賞できたことなど、様々なきっかけが相まって、有難いことに、定期的にコンサートホールで演奏し自分の演奏が多くの人に聴かれるようになってから、4〜5年ほどが経った。大きな舞台、1000人を超える聴衆の前での演奏機会も増えた。

そんな時。

想像してみてほしい。これまでピアノを弾くといえば、自宅の部屋で、若しくはどこかの練習室で、弾くことを主としていた者が、これまでにない「重要な」舞台での演奏を迎えるにあたって、そこで「頑張らない」ことができるだろうか?日頃と何ら変わりなく、一切のプレッシャーを感じることなく舞台上でのびのびとできるだろうか?——それができるとするならあなたにはきっと紛れもない才能がある。生まれながらのアーティスト“a born artist”だ。

さて、そんなことの決してない僕は、やはり、大事な舞台を控えるたび、そこに「向けて」入念に準備練習をし、仕上げ、集中力を高めていって、舞台上で一番の「ちから」を発揮できるよう、いつも思っていた。

しかしながら…である。問題は、ここに生ずる。

以下に記すことに対し「何たる自惚れ!」と思われてしまっても仕方がないが、僕は自宅で、特に自分が心を寄せている大切な作品を、とりわけ気合を入れて弾いているのでもなく、まるで自分自身の為に弾いている折、「ああ何と素晴らしい演奏をするのだろう自分は!」と思えることが、多々ある。それが、たとえ過去の偉大なピアニストによって既に弾き尽くされた名作であっても、「それでも自分が弾く意味がある」と、一点の曇りもなく信じることができる。もちろん、それが全ての作品に対し毎日やってくるわけではないけれど、しかし、あるのだ。
だからこそ自分は舞台で演奏するコンサートピアニストになる道を選ぶことができたのである、と言える。少なくとも、作品が/演奏が/もしくはその両者が素晴らしいと信じ切ることができない状態で舞台に立ち続けるなんてことは、僕には絶対にできない。

ところが、だ。
その瞬間に向け体調を整え、緊張感も相まって火事場の馬鹿「ぢから」が発揮されるはずの舞台上で、それが再現できない。自宅での感動が再現できない。そういう思いを幾度もしてきた。

もちろんそれは作品の種類による。“一球入魂”を求められる強いメッセージを持った作品において、舞台上での強い思いが良い方向に働くことは沢山ある。しかしもっと、何というのだろう、“か弱い”作品において、僕が本来わかっているはずのことが、一番それを伝えたい瞬間に、わからなくなってしまう。

さてここから言えること。音楽において、常に「真剣=善」ではないということだ。演奏のキャリアも少しづつ積んできて、少し精神的余裕を持てるようになった今、このことを——舞台上でも平常でありたい!ということを——強く思うようになった。


音楽にせよ文学にせよ、素晴らしい芸術が持つのは意味の世界であると思う。競争の世界ではなく、意味の世界。美しい音、より美しい音、そんなに美しくない音、といったものが単体に存在するのではなく、それらがあくまでも、文脈の中に適切に配置されて、ようやく意味を成す世界。音楽が意味の世界であるということはつまり、例えば辞書を読み漁ってみた時に大いに感じることができるように、そこには多種多様な広がりが内包されていなければならない。
一生懸命という言葉がある。その言葉、僕は好きであるが、音楽に身を投じるにあたっては、一生懸命 or not という直線的な世界観から一刻も早く抜け出さねばならぬ。数学でいうところの数直線、つまり一次元的世界からの脱出だ。そして、x軸、y軸、さらにはz軸までも含めた、二次元、三次元的世界へとまで、世界を拡大してゆかなければならない。即ち、全ての価値判断は「+か−か」という2極ではなく「文脈による」という感覚を得ねばならない。一生懸命も必要な時には必要だし必要ない時には必要ない。“綺麗な”音も必要な時には必要だし必要ない時には必要ない。そして「舞台上では常に一生懸命」という世界から脱しなければならない。
さてここで「気楽」の登場で、これが大きな1つの鍵ではないかと思う。なぜならそれは最も難しいことがらで、「よい演奏をしたい」などと思えば思うほど、遠ざかってしまうものだから。
必要なのは、音楽が、もっと日常へと降りて来る感覚だ。崇高だけが音楽ではない。世界のあらゆる事柄を包み込んでくれる、そんな幅の広さこそが音楽の偉大さだ。


さて。そんなこんなの上記考察から、僕たっての希望で生まれた企画が、来たる12月の初めに行われます。
浜離宮朝日ホールでの「務川慧悟 連続演奏会」として、12月4〜8日の5日間、毎夜のリサイタル。もともと何公演かに分けてのリサイタルのお話があり、では連続で、とさせて頂いたのだ。

これはつまり、舞台と日常とが近くなり、音楽が日常へと降りて来てくれることを願ってのことだ。時々、5夜連続だなんて大変ですね、とも言われるけれど、これが大変なことなのかは僕にはよく分からない。けれど1つ言えるのは、これが「大変さ」を目指すのとは真逆の試みであるということ。すなわち僕が意図したのは「あまりに孤独な練習と、あまりに晴れやかな舞台の間には、あまりに大きな落差があって、その落差を行き来するのが演奏家の定め」ではあるけれど、その落差が表現の大きな足かせとなる可能性は大いにあって、どうにかその落差を取り払えないか、の試みだということ。この期間、舞台が少しでも、自分にとって、日常に近くなりますよう。

そのために「毎日弾いてしまおう」なんていうのは少し乱暴かも知れないけれど、でもこれまでの個人的な経験として、例えば体調も万全、時間的にも充分にゆとりを持って準備のできた演奏会で、ただ可もなく不可もない演奏に終わることもある一方、沢山の忙しいスケジュールの合間に四苦八苦して準備をし、身体的・精神的にも不調、という際にこそ、驚くほど良い演奏ができた経験もある。それくらい、「気負わぬ」ことは大きな鍵となるのだ。

音楽、とりわけクラシック音楽が、宮廷やサロンとかつて強く関わって生まれてきた事実。中でも特にピアノ音楽というものが、1人で弾ける・減衰する楽器ということもあって、「小さなセカイ」を表したものが多いこと。そんなことも相まって、音楽はもっと日常に即したものであるべきだろう…と、そんなこと、聴く側としての音楽ファンとしては昔からとうに知っていたはずなのに、それが責任ある「仕事」となった時点で僕はともすればすぐ忘れてしまう。

これらを「気楽」と呼ぶと言葉遣いとしてはちょっと軽いかもしれないけれど、「崇高な舞台がもっと日常的なところへと落ちてゆく」。。。そんな感覚を少しでも感じられることを密かに願いながら、この5日間、演奏したいと思います。

と、ここまで書いて、少し笑えてしまった。気楽に関して、あまりに真剣に論じている!真剣なる気楽論。。。うむ。やはり、気楽とは、決して一筋縄ではいかぬものなので、ござった。

務川慧悟

務川慧悟 連続演奏会
〈第一夜〉Aプログラム

2023.12/4(月)19:00 浜離宮朝日ホール
〈第二夜〉Aプログラム
12/5(火)19:00 浜離宮朝日ホール
〈第三夜〉Bプログラム
12/6(水)19:00 浜離宮朝日ホール
〈第四夜〉Bプログラム
12/7(木)19:00 浜離宮朝日ホール
〈最終夜〉特別プログラム
12/8(金)19:00 浜離宮朝日ホール

問:NEXUS  info@nexus.jpn.com
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