音楽の楽しさをみんなで感じてほしい
今年傘寿を迎えたヴィオラの今井信子。言うまでもなく世界に誇る真の巨匠である。世界中の尊敬を集める彼女の80歳を祝う記念公演は、3月にアムステルダムでも開かれ、海外で活躍中の仲間や弟子たちが馳せ参じている。8月18日には東京で記念演奏会が開催されるが、今井はこのステージを心から楽しみにしている。
「70歳のときはスタンダードでまじめなレパートリーを選びましたが、80歳になると何か気分が違ってきて、楽しい音楽会にしたい! と考えるようになりました(笑)。ヴィオラで何ができるかを示すというより、若い人たちとみんなで一緒に音楽を楽しみたい、誰でもわかるような肩がこらない音楽会にしたい。私のやりたいことをやらせていただく、ちょっと勝手で贅沢なプログラムになりました(笑)」
演目は“勝手”どころか、バラエティに富んで贅沢な、誰もが楽しめてヴィオラの魅力も多面的に伝わる、すてきな曲目が並ぶ。1曲目がドブリンカ・タバコヴァの「古い様式による組曲」(2006)で始まるのも意表を突く。
「最初のタバコヴァの作品は、ちょっと変わっていて可笑しくて楽しくて。ヴィオラは楽器も奏者もまじめで目立たない、という印象があるかもしれませんが、ワッと驚くようなことができればと思います(笑)。意外な始まり方から笑って楽しんでいただければ」
次の部はヒンデミットのヴィオラ・ソナタ op.11-4、リダウトの「はなのすきなうし」、武満徹の「Songs」、J.S.バッハのブランデンブルク協奏曲第3番。共演者も各曲違う奏者やグループで、今井が人生で深く関わってきた人々と、いま聴かせたい曲目が並んでいる。
「固いイメージのあるヒンデミットですが、このソナタは一番聴きやすい曲だと思います。ヒンデミットにこんな曲があるとは! というくらい、ヴィオラの音の美しさとロマンティックな良さがよく出ています。ピアノは伊藤恵さん。本当に一緒に音楽をやってきてよかったなと思える方で、心許せる相手です。
リダウト『はなのすきなうし』は、私の弟子のティモシー・リダウトさんの親戚にあたる方の作品で、これもどなたにも楽しんでいただける曲だと思います。朗読は今井純子さん。実は義理の娘なんです(笑)。この曲自体、こどもや孫にお話をきかせるような作品なので、ぜひ家族とやりたいと思い、彼女にお願いしました。共演をお願いしたら最初は驚いていましたが(笑)、引き受けてくれました。家族で演奏できるのがうれしいです。
次は武満徹さんの歌の曲を、山田和樹さんのピアノとともに弾きます。武満さんは複雑な内容の素晴らしい曲もたくさんありますが、今回はもっと親しめてみんなが口ずさめる、家族で歌えるような曲がいいなと思って。山田さんも私と同様に、自分の思ったことを正直にやりたいタイプ。やはり心許せて一緒に弾きたいと思える方です。
ブランデンブルク協奏曲第3番は、小早川麻美子さんの編曲で、2004年から15年間行った『小樽 ヴィオラマスタークラス』出身者との共演です。ヴァイオリンパートもヴィオラが受け持ち、ヴィオラだけで計6パート、4人ずつで24人になります。小樽では町の方々が手厚くサポートしてくださって、夜中までみんなで弾いたり、自由な雰囲気で音楽会をやっていました。雪の中というのがすごく新鮮で、別天地というか、そこに集まった仲間には特別な思いがあって、今回は同窓会のようです」
演奏会最後のモーツァルト「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」のソリストは今井とヴァイオリンの竹内鴻史郎。この曲と冒頭のタバコヴァ作品は、山田の指揮と今回のためにオーディションで選抜した奏者によるスペシャルオーケストラとの共演。多くの若手との舞台になる。
「私はやっぱり若い人と弾きたくて。竹内さんは原田幸一郎さんが紹介してくださいました。まだ高校生ですが、共演者として素晴らしい方です。オーケストラのオーディションには色々な方がいらっしゃいました。時間をかけてお話をきいて、感覚的に何かいいなと思った人を山田さんと選びました。音楽は経歴で作るものではありません。その場で皆で感じて、分かち合うことが大事。若い人も一人ひとり同等です。音楽の楽しさをみんなで感じてほしい、彼らの人生に何かプラスになれば、という精神でやっています」
今井は全曲出演し、自ら意欲的にステージを作り上げる。そのモチベーションはとにかく「楽しさ」。自分のことはもはや二の次、「みんなで楽しむ」ことを繰り返す。
「ヴィオラの深くて美しい曲はたくさんありますが、そういう曲は皆さん知っているでしょうし、こんな曲があってこういうこともできる、何か新しいことをやりたい、というのが今回の出発点になりました。皆さんに助けられてここまで来て、スペシャルな音楽会ができるだけでも私はすごく幸せですし、お世話になった方々へのお礼の気持ちも込めて、とにかくみんなで楽しめる演奏会にしたいと思っています」
このインタビューでの今井は、実際は「(笑)」を半分以上のコメントに付ける必要があるほど、明るく和やかな語り口で、巨匠然としたところが一切ない。これも人との関わりが魅力である、ヴィオラという楽器が生み出す特性なのかもしれない。
今井が2007年に出版した著書『憧れ』には「次の世代を育てることは、ヴィオラ奏者としての務めだと思っている」と記されている。自らが1992年に開設した「ヴィオラスペース」では「マスタークラス」で後進を指導し、「東京国際ヴィオラコンクール」も実現した。今回の記念公演の若手起用も次世代への思いの表れだろうが、彼女は「育てるというよりも、私自身が型にはまりたくないので、いつも新鮮なことを探しているということです」とやはり自らのこととして語る。
今井は6月の「ヴィオラスペース」で、若手四重奏団の第一線を走るレグルス・クァルテットと共演し、モーツァルト弦楽五重奏曲第3番の緩徐楽章の第1ヴィオラを担当。もとよりソロの多いパートだが、「これが伝説的名奏というものか…」と本能に訴える圧倒的な音楽を実現、ワンフレーズごとに聴衆が呆然と呑まれていった(会場にいた方には大げさな賞賛ではないと同意してもらえるはず)。世界的レジェンドの何たるかを思い知らされたのである。そのときのことを尋ねると「ちょっと仕掛けてみたら、すぐに応えてくれたので、またもっとやってみたわけです(笑)。レグルスの皆さんの感性がすばらしかったので、お互い様ですよ」と事も無げに笑う。期待の若手音楽家と“その場で感じて分かち合う”ことができたときに巨匠がみせる至芸、今こそ体験するべきときだ。
取材・文:林昌英
【Information】
今井信子スペシャル ~傘寿記念演奏会~
2023.8/18(金)19:00 サントリーホール
出演
今井信子(ヴィオラ)
山田和樹(指揮・ピアノ)
伊藤恵(ピアノ)
竹内鴻史郎(ヴァイオリン)
今井純子(朗読)
小樽 ヴィオラマスタークラス Alumni
Nobuko Imai Special オーケストラ
曲目
ドブリンカ・タバコヴァ:古い様式による組曲(2006)
ヒンデミット:ヴィオラ・ソナタ op.11-4
リダウト:はなのすきなうし
武満徹(森山智宏編):Songs「さようなら」、「恋のかくれんぼ」、「めぐり逢い」
J.S.バッハ(小早川麻美子編):ブランデンブルク協奏曲第3番 BWV1048
モーツァルト:ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364
問:AMATI 03-3560-3010
https://www.amati-tokyo.com