ぶらあぼONLINE新コーナー:海の向こうの音楽家
テレビなどで海外オケのコンサートを見ていると「あれ、このひと日本人かな?」と思うことがよくありますよね。国内ではあまり名前を知られていなくとも、海外を拠点に活動する音楽家はたくさんいます。勝手が違う異国の地で、生活に不自由を感じることもたくさんあるはず。でもすベては芸術のため。このコーナーでは、そんな海外で暮らし、活動に打ち込む芸術家のリアルをご紹介していきます。
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連載第13回は、ブリュッセル在住のピアニスト、酒井茜さん。マルタ・アルゲリッチ、ギドン・クレーメル、故イヴリー・ギトリスら錚々たるアーティストと室内楽で共演を重ねるなど、ヨーロッパを中心に活躍を続けています。また、日本でも、アルゲリッチとのデュオコンサートのほか、ラ・フォル・ジュルネ、PMFに出演。10月には浜松・名古屋でCD発売記念リサイタルを行いました。今回は、今年の夏から秋にかけて酒井さんが出演された音楽祭の様子などを綴っていただきました。
文・写真提供:酒井茜
ベルギー、またブリュッセルといえば、チョコレートやビール、ムール貝、エリザベート・コンクール、画家のマグリットなどをみなさん挙げられるのではないでしょうか?
移動が多い音楽家にとって、ベルギーは地理的に素晴らしく、パリへは電車で1時間15分、ケルンにも2時間余り、アムステルダムへも2時間半と、とても快適な街です。今回は、新しくリリースしたCD『Voyages(ヴォヤージュ)』のことや、そしてコロナの規制がほぼ無くなったヨーロッパでの夏~秋のコンサートのことなど、私の近況について読んで頂ければ幸いです。
『Voyages』と名付けたCDは、素晴らしい〈Shigeru Kawaiピアノ〉との出会い、世界の著名なアーティストから絶大な信頼を寄せられているカワイヨーロッパの調律師、山本有宗氏の万全のサポートによって、コロナ禍による何度かの延期を経て実現しました。バッハ、ショパン、シマノフスキ、マチエイェフスキ、ヴァインベルク、そしてシュピルマンという6人の作曲家のそれぞれの人生において、「旅」は果てしない興味への憧れ、また、身を切られる思い出の出発など、それぞれ意味が全く違います。映画『戦場のピアニスト』の主人公として知られ、ユダヤ系ポーランド人であったウワディスワフ・シュピルマン。第2次世界大戦当時ユダヤ人はショパンの作品を弾くことを禁止されていました。今回CDに収録しているシュピルマン作曲のマズルカは、彼がユダヤ人強制居住地域(ゲットー)のカフェで弾くために作曲されたものであることを記しておきたいと思います。
6月
2018年より私がアーティスティックプランナーを務める「マルタ・アルゲリッチ音楽祭 Martha Argerich Festival」が行われました。例年、音楽祭の会場から徒歩30秒のホテルが取れるのですが、今年のハンブルクは見本市や色んなイベントが重なり、開催2週間前に全くホテルが取れないと主催者から連絡が入り大慌て。始まる前から波乱の幕開けとなりました。さらには、航空会社のストライキがあり、自動車でヨーロッパを縦断して、公演に間に合うように来てくれたアーティストもいました。
マルタ・アルゲリッチ音楽祭には、プログラミング責任者としてだけでなく、ピアニストとしても参加しているため、一年で最も忙しい時期です。それでも公演プランナーとして、「スタンダードな名曲にどのような埋もれた名作を組み合わせればよいのか」という思考を巡らせるのはとても楽しい作業で、プランナーとしての特権でもあります。今年はソワレ・ショパンや今までと少し趣向を変え、一晩にクラシックとフラメンコ、またはジャズなど、ジャンルにとらわれないプログラムを組みました。もちろん圧倒的なマルタさんの演奏を軸として。チェリストのミッシャ・マイスキー、ヴァイオリニストのルノー・カプソンや堀米ゆず子さん、ピアニストのエレーナ・バシュキロワ、昨年のショパンコンクールでの優勝が記憶に新しいブルース・リウなどのアーティストが華を添えてくれました。
私は、ポーランド生まれのグラジナ・バツェヴィチ(Grażyna Bacewicz,1909-1969)の珍しいクインテット第1番に加え、お互いブリュッセル在住で、長年仲良くさせてもらっている堀米さんと久しぶりに、大好きなシュトラウスのソナタを共演し、心が躍りました。また、ソナタの前に演奏された堀米さんのバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタに心底感動し、袖で聴いていたカプソンも大絶賛していました。音楽祭期間中の9日間はハラハラドキドキが沢山ありましたが、素晴らしい演奏の数々で、今年も忘れることのできないものとなりました。
7月
7月の初めにパリ郊外であった「第1回レ・エトワール・デュ・クラシック Les Étoiles du Classique」に参加しました。今年初めて開催され、日本語にすると「クラシックの星たち」と名付けられたこの音楽祭は、才能溢れる新世代のアーティストに公演の機会を提供する目的で創設されました。
私は、〈イヴリー・ギトリスへのオマージュ〉公演で、クライスラー(ラフマニノフ編)の 「愛の悲しみ」を、その後に、イル・ド・フランス国立管、ヴァシリー・チュミコフ(ヴァイオリン)、ブルーノ・フィリップ(チェロ)とベートーヴェンのトリプル・コンチェルトの第3楽章を演奏しました。以前よりブルーノ・フィリップの噂は聞いていましたが、彼の音楽性は本当に素晴らしく、強く印象に残りました。ヴァシリーとブルーノと「また是非一緒に弾こうね!」と約束して別れました。
音楽祭の会場となったサン=ジェルマン=アン=レー城の庭園は、舞台と観客席に屋根がなく、〈イヴリー・ギトリスへのオマージュ〉公演では、猛暑の中、パラソルの下で演奏するという初めての体験をしました。この日のピアノも調律師の山本有宗氏が駆けつけてくれて、気持ちよく「Shigeru Kawai ピアノ」を演奏することができました。ちなみに、待機中のピアノは直射日光を避けるため、パラソルとピアノカバーで日除けされていました。イル・ド・フランス国立管との当日のドレスリハーサルは舞台上で行われる予定でしたが、野外のため非常に暑く、オーケストラのユニオン(労働組合)は日が落ちるまで舞台に上がることを許可しませんでした。その結果、なんと3秒間だけの人生最短のドレスリハーサルとなりました(前日に別の場所で10分間ちゃんとリハーサルしました)。そして、公演は2時間遅れで開演。本番は、野外のためオーケストラの音があまり聞こえず、なかなか過酷な環境でしたが、そのお陰か逆にみんなの集中力が高まり、バッチリでした!
9月
イタリア半島の西岸(トスカーナ地方)に位置するエルバ島。エルバ島と聞いて、おそらくほとんどの方はナポレオンの流刑地と思われるでしょう。海のあまりの美しさに圧倒され、私にとって“one of the most beautiful places in the world”(世界で最も美しい場所の一つ)と言っても過言ではありません。ここでは毎年夏の終わり頃に「エルバ島ヨーロッパ音楽祭 Elba Isola Musicale d’Europa」が開かれおり、今年で26回目を迎えました。音楽、歴史、自然が調和し、目、耳だけでなく、美味しいトスカーナ料理に囲まれ、舌までもが大満足な幸せ過ぎる音楽祭なのです。今年は、街の広場、教会、劇場で、クラシックだけでなく、ジャズ、ボブディランに捧げるコンサートなど数々の公演が開催されました。
私は昨年に引き続き今年も出演し、今回はヴァイオリンのミシェル・グートマン、そして日本でもお馴染み、チェロの趙静さんとのトリオで、ベートーヴェンが唯一編曲した交響曲第2番(ピアノ・トリオ版)を演奏しました。オリジナルが交響曲のため、それぞれが自分たちの楽器の音だけでなく、オーケストラ全体の音を再現しなければならず、音符も多く苦労しました。会場となった劇場は、ナポレオンが島に滞在していた時に、1618年に建設された教会を劇場に改築したもので、1815年にオープンしたそうです。つまりは大昔に建設されものなので、当然と言えば当然なのですが、クーラーもなく体力を奪われました。しかしナポレオンの時代からあると考えただけで、なんだか感慨深い気持ちになりました。趙静さんとはこれまでに何度も共演していることから、「日本でまた一緒にやりたいね」との思いが一致し、現在公演を計画中です。
エルバ島での2泊3日の演奏旅行は終わり、次の目的地ドイツへ。早朝4時に起きて、1時間フェリーに乗り、ピサ空港からフランクフルト経由でドレスデンに飛ぶはずが、フランクフルトでまさかのルフトハンザ航空のストライキに遭い、そこからは電車に揺られて9時間! 結局、トータル17時間の旅路となり、ヘロヘロになりながらも何とか無事に目的地に到着しました。
翌日からドイツ東部ゲルリッツで行われた「ラウジッツ・フェスティバル Lausitz Festival」に3日間出演。このフェスティバルは数年前に始まった文化フェスティバルで、音楽だけでなく文学や演劇などの公演もあります。ゲルリッツは、ドイツとポーランドの国境に位置し(なんと橋を歩いて渡ればポーランド!)、メシアンが戦争捕虜として囚われた際に「世の終わりのための四重奏曲」を作曲した場所でもあります。
今回私は文学のカテゴリーでの出演でした。出演にあたって「チャイコフスキーの『四季』をドイツの詩人エーリッヒ・ケストナーの13ヵ月の朗読と共に弾いてほしい。そしてその際 『オスモドラマ Osmodrama』という香りを出す機械も一緒だから」という簡単な説明をはじめに受けました。新しいものに目がない私は「もちろん!!!喜んで」と返事をし、オスモドラマに関するビデオを見ながら、「一体どんなことになるのだろうか?」と期待が膨らむばかり。説明によると、64の筒からなるパイプオルガンのような装置「オスモドラマ」に様々な香料を仕込み、コンピューターで配合すればどんな香り(自然や食べ物、動物、街の香り、文化的な香りなど)でも作ることができるとのこと。そして、その香りが私たちの忘れていた記憶を呼び起こすきっかけとなることを目的としているそうです。私としては、スクリャービンが色や香りを音楽化!?することを夢見ていたことを思い出さずにはいられませんでした。
待ちに待った公演当日、この公演のために改装中のゲルリッツ市庁舎の大ホール内部に25メートルほどの少し気圧を変えたテントが張られました。ワクワクしながら私は朗読する俳優ハンス・ユルゲン・シャッツ氏やお客様と一緒にその中に入りました。詩が先に朗読され、次に私が演奏します。そして、朗読されている詩とリンクした香りが調合されてオスモドラマから放たれるのです。残念ながら私が演奏している場所からは香りはよく分からなかったのですが、終演後に聞いた所によると、暖炉、芝生、石けん、りんごまでは良かったけれど、チーズの香りには参ったようです(笑)。
今回演奏したチャイコフスキーのピアノ曲集「四季」は12ヵ月しかないのですが、詩は13ヵ月あり、ピアニストとしてはちょっぴり戸惑いましたが、曲と詩との相性は抜群でした。
ウクライナの戦争が始まって以来、ポーランドではロシア文学やロシア音楽も禁止されているという事実は、日本であまり報道されていないのではないかと思います。このチャイコフスキーを弾いたゲルリッツ市庁舎(ここはドイツ)から橋を渡るだけでポーランド(徒歩3分ほど)なので、ゲルリッツ市での体験は本当に考えさせられるものとなりました。1秒でも早く戦争が終わり、世界中でも何も規制のないコンサート、文学、絵画展などが開かれ、人生を豊かにしてくれる日が来ることを願って。
酒井茜(ピアノ) Akane Sakai
名古屋生まれ。ピアノ教師の母のもと、幼少よりピアノを始める。桐朋女子高等学校音楽科、桐朋学園大学にて三浦みどり氏に師事。卒業後ベルギーに渡り、ブリュッセル音楽院にてエフゲニー・モギレフスキー、ルーヴァン音楽院ではアラン・ヴァイスのもと1等賞を得て大学院過程を卒業。その後パーヴェル・ギリロフ、リリア・ジルベルシュタインに師事し研鑽を積む。NPO法人イエローエンジェル奨学生、文化庁海外派遣新進芸術家研修生に選ばれた。
クレメラータ・バルティカ、シンフォニア・ヴァルソヴィア、ハンブルク交響楽団、スイス・イタリア語放送管弦団、東京交響楽団、マンチェスター室内管弦楽団、ローザンヌ室内管弦楽団などのオーケストラやアレクサンドル・ヴェデルニコフ、ジャン・ジャック・カントロフ、ガボール・タカーチ=ナジらと共演。ラ・フォル・ジュルネ(ナント、東京)をはじめ、パシフィック・ミュージック・フェスティバル(札幌)、ラ・ロック・ダンテロン(仏)、「ショパンと彼のヨーロッパ国際音楽祭」(ポーランド)、 ルガノ音楽祭(スイス)、別府アルゲリッチ音楽祭など数々の音楽祭に出演。
バッハからプロコフィエフ、バルトーク、武満等レパートリーは幅広く、最近では特にシマノフスキ、マチエイェフスキ、ヴァインベルク、シュピルマンなど第1次世界大戦後のユダヤ系ポーランド作曲家の作品の発掘に力を注いでいる。室内楽にも造詣が深く、マルタ・アルゲリッチ、ギドン・クレーメル、故イヴリー ・ギトリス、諏訪内晶子、堀米ゆず子、川本嘉子、エフゲニ・ボジャノフとも息の合った演奏を聴かせている。
録音はワーナーミュージック、ドイツ・グラモフォンより「ルガノ音楽祭」のライヴCD、そして初のソロCDがキングインターナショナルから発売され、レコード芸術誌特選盤に選ばれた。
2018年よりドイツ・ハンブルグでの「アルゲリッチ・フェスティバル」においてアーティスティック・プランナーを務めている。
CD『旅〜ヴォワヤージュ
J.S.バッハ:パルティータ第1番 BWV825
シマノフスキ:マズルカ op.50
マチエイェフスキ:マズルカ〈第9番 タトラ山脈からのエコー〉〈第10番〉
ヴァインベルク:マズルカ 第2番
シュピルマン:マズレック(マズルカ)
ショパン:ソナタ第2番「葬送」、3つのマズルカ op.63
Acousence records
ACO-CD14322 ¥オープン価格